ラジオ農民の声の完全復活は遠し(ハイチ地震の被災地レポートその3)


【ポルトープランす=日比野純一】ハイチには50を超えるコミュニティラジオ局があり、そのうちの12局が今回の地震で被災しました。
もっとも大きな被害を受けたのは、CODEや日赤などいくつかの日本の団体が活動している激震地のレオガンから山の中に1時間ほど車でいったフォンドワ村にある「農民の声」ラジオです。

フォンドワ村も他のハイチの農村と同様に、電気も水道もありません。
村の女性たちは朝起きると、大きなポリバケツとポリタンクをいくつかもって1〜2キロ先の谷底の水汲み場まで歩いていき、水を汲み終えると大きなバケツは頭にのせ、両手に小さなはボリタンクをもって、すべり落ちそうな急な道を尾根まで上がり、さらに歩いて家まで帰っていきます。2時間は有にかかる重労働です。これを来る日も来る日も繰り返さないと生きていけません。でも、その水だって決して浄化されているわけではありません。


フォンドワ村の夜は月灯り以外の光がなく、ほんとうに真っ暗です。村のコミュニティセンターにだけ発電機と太陽光発電パネルがあり、暗い蛍光灯がぽつんぽつんと灯っています。
もちろんテレビのある家など一件もなく、ラジオだけが村人の情報源かつ娯楽源なのです。さらにいうと、文字を読むことができない村人も少なくなく、なおさらラジオは生活に欠かせません。

地震の前に、フォンドワ村のコミュニティセンターには学校、病院、孤児院、コミュニティラジオがあり、その運営を住民組織「フォンドワ村農民協会」が行っていました。そしてフォンドワ村農民協会の活動をカトリックの修道会が側面支援していました。しかし、1月12日の地震ですべての建物が全壊し、その下敷きになって何人もが亡くなりました。村の公共機能は完全に消滅してしまったのです。

そのフォンドファ村のコミュニティセンターの跡地はいま、救援活動のボランティア基地となっています。救援ボランティアが宿泊する小屋がボランティア達の手によって数件建てられ、多くの人たちがそこに寝泊まりして救援活動を行っています。もちろんテントに寝泊まりしているボランティアもいます。

彼らは、瓦礫を撤去したり、仮設トイレをつくったり、ガタガタになった道を整地したり、阪神淡路大震災時の救援ボランティアとまったく同じ活動を展開しています。また、ブルーシートで覆っただけの臨時診療所をつくり、毎日100人以上の村人の診察を朝から夕方まで行っている若い医者、看護師たちもいます。彼らは震災後ずっと1〜2週間交代でアメリカからきているボランティアです。孤児のケアをしている修道会のシスター達は、ここで活動しているボランティアの食事づくりを担当しています。作業着の洗濯(手洗い)をひたすらしているボランティアもいます。

そうです。まるでここは、たかとり救援基地のようです。

全壊したラジオ局のスタジオは3月下旬にAMARC(世界コミュニティラジオ放送連盟)の手で仮設スタジオが作られ、かろうじて放送をできるようになりました。しかし、機材や電気の確保が十分でなく1日1時間半しか放送ができず、コミュニティラジオの役割を果たせていません。屋根がトタンのため、大雨が降ると音がかき消され、放送を続けることはできません。雨季に入ったハイチでは夏まで毎日強い雨がふります。地震の前はニュース、保健・健康(人間だけでなく家畜も)、教育、娯楽など多様な番組を村人たちがつくって、一日7時間も放送していました。「一日も早く、元通りの放送を再開したい!」それがミーティングに集まった村人たちの共通の願いです。

ラジオの再建も含めて、フォンドワ村のコミュニティセンターの再建は村人たちの願いです。フォンドワ村農民協会は救援、復興のための資金の寄付を広く募っています。

ハイチ政府や国際援助機関の手はまだこの村まで伸びていません。

(つづく)