「奄美専門チャンネル「南の風」」カテゴリーアーカイブ

2019年9月奄美専門チャンネル~南の風 奄美夏から秋

2019年9月の奄美専門チャンネルはYoutubeでもお送りしました。
番組で出しのマイク音の不具合があります。ご了解くださいませ。

夏から秋への移ろいを語りとJABARAレーベルのシマウタでお送りします。

2019年7月奄美専門チャンネル~南の風「令和時代の奄美について語ろう」

元号があらたまてはや三カ月。奄美はいったいどのような社会になるのでしょう。
7月分の放送では、奄美のさまざまなテーマから「奄美NOW」をお知らせします。 「令和時代の奄美について語ろう」

〈奄美かたり①〉
★奄美群島の人口についてです。かつて戦後すぐの一時期、群島の人口が22万人となった時期がありました。2019年4月現在の推定値では、104.166人。このままでは10万人を割るのは時間の問題です。その中でも人口が増えた自治体があります。奄美大島の南部に位置する瀬戸内町。陸上自衛隊の奄美整備隊瀬戸内分屯地があたらしく出来て、多くの陸自の隊員とその家族が新しく住み始めたからです。こうした新しい人たちが島に住み始めることを歓迎する人たちはいます。この部隊は、同じく奄美大島奄美市にあらたに設置されたミサイル部隊を警護するために配属された組織です。つまりミサイル基地が攻撃される時のために警護する部隊としてミサイル部隊とセットとして配属されたものです。かつて米軍の海兵隊基地が徳之島に移設されることに対して反対運動が島ぐるみで起こりましたが、日本の陸上自衛隊の基地が奄美大島に新たな基地を設置する際には、島ぐるみといった大きな反対闘争は起こらなかった(もちろん反対運動は存在しますし、その運動は継続しています)。今は自衛隊基地が新しくできたことで、1.人口が増えて過疎化が緩和される。2.大きな災害が起きた時、同じ奄美に部隊がいればすぐかけつけてくれる。3.地元経済になんらかの貢献がある(つまり地元で消費され還元される)ことが期待される――といった利点を誘致賛成派は唱えますが、いざ戦争や戦争状態になった場合、ミサイル基地や通信基地などはまっさきに攻撃される対象のひとつであることを忘れてはいけません。
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★奄美専門チャンネル「南の風」2019年6月の放送

★奄美専門チャンネル「南の風」2019年6月の放送
さようなら「平成」〈平成時代の奄美30年間を振り返る VOL.04〉
2009年東京で行われたパネルディスカッション「奄美侵攻/侵略400年を考える」(カルチュラル・スタディーズ in Tokyo)


奄美専門チャンネル「南の風」では、「世(ゆ)替わり」にあわせて、平成時代の奄美はいったいどんな30年間だったのかを、数回にわたって特集したいと思います。今回はその最終回です。今回は、平成30年間の奄美における歴史・社会・状況の変化について語ります。奄美の社会変化は、2000年代に集中していることです。それは〈2002年〉〈2003年〉〈2009年〉に起こったことなのです。
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奄美専門チャンネル「南の風」2019年5月の放送

★奄美専門チャンネル「南の風」2019年5月の放送

さようなら「平成」〈平成時代の奄美30年間を振り返る VOL.03〉

奄美専門チャンネル「南の風」では、「世(ゆ)替わり」にあわせて、平成時代の奄美はいったいどんな30年間だったのかを、数回にわたって特集したいと思います。今回は3回目です。平成30年間の奄美における社会・環境をめぐる変化について語ります。写真は大橋撮影。徳之島伊仙町犬田布集落にある小規模「製糖工場」。積み上がったキビを手際よく煮詰めていく工程が見学できる(最近の奄美のキビ農家は大型製糖工場に収穫したキビを搬入するだけの原料提供者となっている。かつては各農家で刈り取ったキビを絞り煮詰めて黒糖にして木樽に詰めるまでの作業を行っていた)

〈語り/01〉今回の最初の語りは、〈争いから離れて〉をテーマにしましょう。平成時代がまさに終わろうとしている4月19日。保岡興治元衆議院議員(鹿児島一区)が死去しました。この保岡興治氏と徳田虎雄氏は、奄美選挙区で激しい選挙戦を展開しその様相は「安徳戦争」とも呼ばれていたのです。
奄美の衆議院議員選挙は1953年に日本へ復帰して特例として設けられた当時全国で唯一の一人区でした(奄美以外は複数の議員が当選していた)。この衆議院議員選挙で過去何度か、激しい選挙戦を繰り返してきました。
1983年と1986年の衆議院選挙では、現職の保岡氏に対して、徳洲会の徳田虎雄氏が挑戦。いずれも僅差で現職が勝利します。しかし徳田氏はあきらめません。つづく1990年になって今度は徳田氏が三度目の挑戦で当選したのです。この「安徳戦争」は1993年の全国的な選挙区の区割り変更で、二人が別の選挙区(鹿児島一区=保岡氏、同二区=徳田氏)に分かれて立候補したのでこの二人による熾烈な選挙戦はなくなりました。この「戦争」と言われた時期は、二人の衆議院選挙だけに終わらず奄美群島の首長選挙をはじめ市・町・村議会議員選挙も巻き込み、シマを二分したのです。その対立は親子、夫婦、兄弟、親戚間でも両派に分かれて、争うなど激しい人間模様が展開されたのです。今ではかつての対立がウソのように静かな選挙戦が行われています。そしてかつての「戦争」の当事者の一人である保岡氏が亡くなったことで、ひとつの時代が終焉しことを実感するのです。
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