「音源ライブラリ「長田今昔物語」」カテゴリーアーカイブ

「長田今昔ものがたり」第55話

第55話 生活様式が変わりました(閑話休題) 2017年7月29日放送

今昔物語のもう一人の話し手の井上さんは建築家です。このところ、住まいは様変わり、日本式から超洋風化、間取りの呼び名もカタカナになっていると話されます。様式が変われば居住形態も変化、住宅建築も様変わり!です。家を建てるのは誰? 昨今の家は商品、不動産ではなさそうです。便所ひとつをとっても、厠(かわや、こうや)とか、雪隠(せっちん)、雪かくしとか、ご不浄と言っていた時代から、「トイレ」という呼称となり、水洗はおろか、ウォシュレットで乾燥まで引き受けてくれます。リビング、キッチン、クローゼット、エントランスとかで、「大工さん」を追いだしたかもしれません。


55話 昔の便所(一例)

「長田今昔ものがたり」第54話

第54話 戦争も災害もありました 2017年7月22日放送

今昔物語の話し手のワダカンは、子ども時代、焼夷弾で焼け焦げた跡のある天井をみつめて、眠りについていました。日本では長く平和が続いていますが、西神戸の産業勃興のキッカケとなった、カネボウの工場用地決定の1894年は、日清戦争の年でもあります。1895年には台湾を日本の領土とし、1904年の日露戦争も勝利し、満州に足がかりをつけ、1910年には韓国を併合、アジアでは唯一、欧米列強と肩をならべる国力をつけてゆきます。この間、西神戸では、船舶や戦闘機や軍需用品も生産します。1945年の神戸大空襲、1995年の大震災など、産業振興の舞台には、戦争・災害もあったのです。


54話 川西航空機(本社は運河沿いにあった)「紫電改」 画・清水光久氏

「長田今昔ものがたり」第53話

第53話 一の谷不動尊 潮音寺、独立した磨崖仏 2017年7月15日放送

須磨一の谷に「磨崖仏」がある。1341年の作品です。南北朝時代の不動明王で、須磨の潮音寺に祀られている。藤田男爵が天理から須磨の別荘に移されたもので、その他、石仏群があり、天平年間の「板碑(いたび)」は天正年間の改ざんという説もあるが、一岩石に磨崖仏の六地蔵が施され残っている。昭和13年の水害で磨崖仏と石仏群ともに一の谷下流に押し流され、「流転不動」ともよばれ、水害にもめげず、奈良の地から神戸の地にやってきた須磨の貴重な文化財である。須磨駅から西へ徒歩10分です。石仏と花のお寺「潮音寺」は須磨寺の末寺、花の季節にぜひ訪れてお参りください。


53話 潮音寺 一の谷不動尊 磨崖仏不動明王

「長田今昔ものがたり」第52話

第52話 いろんな企業が生まれます 2017年7月8日放送

1910年は日韓併合という、記憶に残る年でしたが、中村マッチがマッチ生産を始めています。1912年には、阪神ゴムが東尻池でゴムをはじめ、世界的な商社で名をはせた鈴木商店は、兵庫製油所(ミヨシ油脂が継承)や日本樟脳(東尻池)を創業させています。1920年に入りますと、運河沿いで「川西航空機」が創業、今の新明和の母体でした。1929年には高校の先輩のお父さんが船舶用のポンプを製造するとか、1930年にはわたしの友人のお父さんがナットの製造を始めるとか、すそ野産業も誕生します。帝国酸素というフランス系の会社の進出、鶯ボールやMCC、モロゾフなど話題がわんさかあります。


52話 湊川変電所(1912年建築)長田区南駒栄町

「長田今昔ものがたり」第51話

第51話 産業ラッシュの1900年代 2017年7月1日放送

東尻池は1896年に神戸市と合併、市政の中に入ります。その西の西尻池や野田は自立して独自色を出そうとしていました。1899年に兵庫運河が完成、1900年に入ると耕地は整理され、道路も改修されます。鐘紡につづき、運河近辺には川崎の車両工場ができ、1907年には、増田製粉も横浜からやってきたり、阪東化学がベルトの生産にトライしたりします。1908年には神戸製糖もできます。日本イングラムがやってきて、ゴム工業も始まります。和田岬の引込線からは、第1号の蒸気機関車が製造され出てゆきます。よその人をオープンに受け入れます。よく働く気風と産業の振興とが回転しだすのです。


51話 兵庫運河支流

「長田今昔ものがたり」第50話

第50話 ベルトコンベアと神戸沖埋め立て 2017年6月24日放送

裏山を削り、土で埋め立て、海に新しい土地をつくる、工学博士の原口市長のアイデアでした。昭和39年から平成17年まで41年間、一の谷川に全長14.5kmのベルトコンベアを敷設、海岸まで土を運び、そこから船で土を運搬しました。削った土地は高倉台などのニュータウンへ、海には、六甲アイランド、ポートアイランド2期や神戸空港など、1700haの土地が生み出されました。長田区の約1.5倍の広さになります。「山、海へ行く」というこの構想は、今でも、ベルトコンベアが被災地で役にたっています。陸前高田では神戸の知恵を使い、土地に盛り土を造成するため、コンベアをつなぎ土を運んでいます。


50話 コンベア撤去跡地、一の谷の海岸砂浜に石標がある