★奄美専門チャンネル「南の風」2019年6月の放送


★奄美専門チャンネル「南の風」2019年6月の放送
さようなら「平成」〈平成時代の奄美30年間を振り返る VOL.04〉
2009年東京で行われたパネルディスカッション「奄美侵攻/侵略400年を考える」(カルチュラル・スタディーズ in Tokyo)


奄美専門チャンネル「南の風」では、「世(ゆ)替わり」にあわせて、平成時代の奄美はいったいどんな30年間だったのかを、数回にわたって特集したいと思います。今回はその最終回です。今回は、平成30年間の奄美における歴史・社会・状況の変化について語ります。奄美の社会変化は、2000年代に集中していることです。それは〈2002年〉〈2003年〉〈2009年〉に起こったことなのです。

〈語り/01〉今回の語りはじめは、奄美に対して、どのようなイメージを抱いてるのかを、最初にお話ししたいと思います。テーマとしては〈ひそかに愛されつづける奄美〉としましょう。
この語りには、ひとつのエッセイを引用することから始めます。文芸誌「新潮」2019年4月号に、詩人で小説家の松浦寿輝氏の文章「わたしが行ったさびしい町 4名瀬」です。奄美と神戸について書かれています。松浦寿輝氏はアーケード商店街が好きなのです。松浦氏は奄美に何回か旅をしたことがあるらしく、奄美市名瀬のアーケード商店街の感想を述べています。「町に暮らすふつうの人々の生活を支えている生きた商店街であることや、人工的な繁華街のお祭り騒ぎとは異質の静かで穏やかな活気があるということは言うまでもないのだが、それに加えて、これがゆるやかに蛇行したアーケード街だという点である。」その次に比較する意味で神戸のアーケード商店街が登場します。その箇所をひきつづいて引用してみましょう。
「神戸は言うまでもなく素敵な町である。ただ、元町商店街や三宮商店街がわたしにとってもう一つ魅力に乏しいのは、それがあっけらかんとした直線であるからだ。かなりの距離にわたって広々としたアーケードが続く元町や三宮は立派で堂々としていて、多くの観光客も含む雑踏でいつも賑わっている。そこではさびしい気持ちを味わえない。何か堂々としすぎていて日常生活の素朴な味わいがないこと、賑々しさに振り回されて心が浮き足立ってしまうこと——それもあるが、むしろ曲がりくねりがないのが何となく物足りないのだと思う。」と一直線に伸びるありさまが「さびしさ」を感じることができず物足りない感じがするという理由で、少々不満な様子である。アーケード商店街という観点から、奄美と神戸が登場する面白さに注目したのです。つまり意外なひとがひそかに奄美にかかわって、奄美を語っていることにも着目したのです。
同じ神戸のアーケード商店街のなかでも、直線的ではあるが、新開地本通や長田・大正筋あたりになると三宮・元町と様相が異なります。全体がゆったりして生活の匂いがする。歩いているひとびとの歩速が三宮・元町と違う。もちろんひとびとの構成も違う。普段着の世界なのです。ひとつの都市でも「いくつかの神戸」があるのです。そんな多様な地域の姿をあらためて松浦氏の文章から刺激を受けるのです。

〈語り/02〉つぎの語りは〈2002年〉です。島唄ブームが起こった年です。このことについてはこの「南の風」で何度も語っていますので、簡単にまとめます。このブーム、奄美に限って言えば、元ちとせが「ワダツミの木」をヒットさせ、一躍J-Popsのマーケットが島唄に注目したのです。裏声を駆使して叙情的に歌い上げる元ちとせの歌声は多くの人を魅了しました。もちろんこうした魅力は、奄美でえいえいと築き上げられてきた民謡(しまうた)の伝統と、そして奄美文化の基底にある“歌の力”であるといえましょう。今年もまた「奄美民謡大賞」という民謡コンクールが行われます。「少年の部」「青年の部」「壮年の部」「高年の部」に分かれています。それぞれ部門賞が決定され、その4部門のトップの中から一人だけ大賞が授与されるのです。この大賞を授与された人は、単に奄美民謡界のトツプだけではなく奄美文化・島唄の継承者としての責務を果たすよう期待されるのです。つまり「奄美民謡大賞」は民謡大会のコンクールに終わるのではなく、奄美の歌謡文化を背負ってたつ文化伝承者として位置づけられるのです(本年の「第40回奄美民謡大賞」は6月15日〈土〉奄美文化センターにて103名の参加で行われます)。

〈語り/03〉次の奄美社会の大きな区切りとなったのは、〈2003年〉です。この年は奄美が復帰してちょうど50年にあたる節目の年でした。奄美内外で多くの記念イベントが行われ、11月17日には明仁天皇と美智子皇后を迎えて祝賀会が奄美市で開催されたのです。その奄美訪問で作られた両陛下の歌を紹介しておきましょう。
天皇/復帰より五十年(いそとせ)経るを祝ひたる式典に響く島唄の声
皇后/紫の横雲なびき群島に新しき朝今し明けゆく
これらのうた(短歌)を読んでつくづく想うのは、天皇夫婦が国内の各地をめぐるとき、こうして現地での印象を作品に歌いこむことによって、その土地そのものを「うたに封じ込める」というのでしょうか、天皇一族がこの地もしろしめす(=統治している)ことを刻印するための装置としての〈うた〉があるのだと、つくづく想うのです。こうして和歌・短歌は往古より支配者側が、国土・人民を統治していることの証として機能してきたのだということがわかるのです。

〈語り/04〉三番目のメルクマールは「2009年」。薩摩軍が琉球王国に軍事侵略したのが1609年で、その時からちょうど400年目にあたります。当時奄美群島は、琉球王国の支配下にありました。それが薩摩軍の侵攻によって、奄美では何カ所かで戦闘が行われましたが、相手が悪かった。薩摩は一時九州のぼぼ全域を支配下におくほどの軍事強国であるのに対して、鉄砲の威力も十分に認知されていないような奄美側の戦力では互角の勝負はできません。薩摩軍は奄美、琉球本島をあっという間に制圧。この軍事侵略によって、奄美群島は薩摩(島津)に割譲され直轄地となります(ただし対清貿易の関係上、外交的には、奄美はあくまで琉球王国が支配する「琉球國之内」が貫かれた。そして琉球王国は中国・清王朝の冊封体制の中での独立国としての体面は保たれた)。つまり1609年の軍事侵略から、奄美の近世以降の社会が決定されていくのです(奄美群島が鹿児島県に所属することになったのもこの1609年が起点となっている)。奄美に現代につながる歴史や社会の起点がこの1609年なのです。奄美にとって歴史的に重要な年なのです。幕末から明治にかかる間には「黒糖地獄」と言われる薩摩藩による砂糖納税収奪が奄美に対して行われたことも、奄美の人たちに大きな心の負荷とにっているのです。この年は奄美・沖縄でシンポジウムを始めとして多くのイベントが行われ、奄美のありようについて議論されてきたのです。