タイ、インドネシアの被災地を訪れる(その1)


タイのスラチャイさん

【バンコク発8月30日=日比野純一】
8月30日深夜に関空を飛び立ち9月8日までタイとインドネシアを訪ねる旅に出てています。
今回のタイ訪問は、2004年12月のスマトラ沖大地震およびインド洋津波被害と2006年5月のジャワ中部地震の被災地で、FMわぃわぃと同じように被災者に災害情報を伝え、コミュニティの再生に取り組んでいるコミュニティラジオ局がいくつかあり、その活動を学ぶとともに、互いの経験をシェアして今後に活かしていくことが目的です。


30日未明にバンコクに着き、薄暗い町をタクシーでホテルまで向かいました。バンコクを訪れたのは実に10年ぶり。新しい国際空港や地下鉄、モノレールができるなど都市インフラがかなり整備されたように見えますが、むっとするような気温と湿度、そして特有のの匂いと人々の声が交わる雑踏は相変わらずです。

タイでの視察をアレンジしてくれたのは、スラチャイ・チュプカさん(写真左側)。彼とは昨年11月にヨルダンで開かれたAMARC(世界コミュニティラジオ放送連盟)世界大会で出会い、「災害とコミュニティラジオ」について深く意見交換をしました。彼はいま、バンコクのラムカムハン大学の講師(メディア論)をする傍ら、タイのあちこちでコミュニティラジオの立ち上げ支援(トレーニング)ボランティアをしています。もともとは、タイの全国紙「NATION」の経済担当記者を10年にわたって務めていて、退職後に日本の大学院でコミュニケーションについて学んだそうです。日本に二年ほど暮らしていたので、日本いついてよく知っているのですが、残念ながら日本語はほとんど話せません。

初日(8/30)は、スラチャイとともにJICAバンコク事務所を訪問し、津波被害の支援をはじめJICAがタイ政府機関と連携しながら展開している防災プロジェクトについて話を聞かせてもらいました。災害を所管する行政機関は日本と同様にいくつもタイにはあるにもかかわらず、やはり縦割りが徹底されていて、災害や防災の取り組みもばらばらに行われていて、行政機関が一つのテーブルを囲んで連携していくことをJICAが仲介役になって進めていて、地域社会レベルでもの成果が少しずつ実っているようでした。

JICAの担当者の話で一番驚いたのは、タイの天気予報が日本に比べて非常に大雑把であること。予報能力はもちろん、マスメディアの報道も大枠でしかなされていなくて、県レベルや市町村レベルでの天気情報を住民が得る仕組みが整っていないそうです。日本などは地震が発生すると、テレビにはテロップが流れ、ラジオもすぐに放送しますが、そんな仕組みは夢物語だそうです。

昼食後にスラチャイとから、タイのコミュニティラジオの概要について詳しく話を聞かせてもらいました。AMARC世界大会で「タイにはコミュニティラジオ局が2000局以上あるが、どれも無認可。そして2000以上のコミュニティラジオ局のうち本当のコミュニティラジオ局は一割以下」という話は聞いていたのですが、それがいったいどういうことなのか、よく理解できずじまいでしたので。

スラチャイはちょうど、タイのコミュニティラジオについての論文をまとめたところだったので、立て板に水のように話をしてくれました。彼の話をまとめてみます-

タイでコミュニティラジオの活動が始まったのは2001年。なんと、きっかけは日本政府からの支援でした。1997年にIMF危機があり、タイ経済の支援策としてソーシャルインベストメントファイナンス(SIF)という地域コミュニティを再生する資金が1998年に日本政府からタイ政府に無償供与をされました。

SIFは、(1)コミュニティ活性化の組織づくり(2)コミュニティでの仕事づくりとコミュニティビジネスの起業支援(3)コミュニケーションの活性化-という三つのプログラムを段階的に進めていくことを目的に、政府が直接的に地域コミュニティに資金助成をする画期的なものでした。2001年に SIFの三つ目のステップ「コミュニケーションの活性化」の一つの先導的プロジェクトとして、一県に最低二局のコミュニティラジオをつくることを見据えた地域コミュニティへの助成が始まりました。これによって、タイに75の県で最低150のコミュニティラジオ局ができることになり、タイの各地でコミュニティラジオの扉が開いていったのです。

しかし、だからといってタイ政府はコミュニティラジオを法制化したわけではなく、先導的プロジェクトという位置づけゆえに、なんと放送を始めたコミュニティラジオ局は「コミュニティラジオ学習センター」と名づけられ、ラジオ局ではなくラジオ放送のノウハウを学ぶセンターと位置づけられていたのです。

2002年10月にタイ全土の150の「コミュニティラジオ学習センター」による協会が設立され、政府に対して継続的に放送を続けていくためにコミュニティラジオの制度化を要望していきました。その運動の結果、2004年に「コミュニティラジオ学習センター」の放送訓練時間の中の10%はCMを流してもいいようになり、政府は実質的にコミュニティラジオを認めたことになりました。しかし、それが「コミュニティラジオ学習センター」の商業利用(つまり商業ミニラジオ)への関心を各地で高める結果になり、娯楽やビジネス目的の「コミュニティラジオ」が次々に立ち上がったのです。

2006年末現在で全国に2565の「コミュニティラジオ」があり、そのうち50%が娯楽とビジネス、40%が政治を目的にしていて、本当のコミュニティラジオ局といえるのはわずか10%にすぎません。さらに、2006年9月にタクシン首相がクーデターで職を追われ政権が変わったことで。政府から地域コミュニティに直接資金が流れる施策はなくなり、コミュニティラジオの10%の「本当のコミュニティラジオ局」の半分近くは活動を継続してしていくことが難しくなってきています。

このようなタイのコミュニティラジオの歴史の中で、とくに「本当のコミュニティラジオ」の活動が活発なタイ南部が2004年12月に津波被害に見舞われました。FMわぃわぃの前進のミニラジオと同様の活動が行われたと伝えられてます。明日(8/31)、スラチャイとともにプーケットに飛び、津波の被災地を訪ねます。