津波とマイノリティとラジオ − タイ、インドネシアの被災地を訪ねる(その3) −


津波で打ち上げられた船

2004年12月26日に発生したインド洋津波によりタイ国内で亡くなった人の数は5395人。そのうちタイ人が1972人、外国人が2248人(40カ国)で、1175人が国籍不明。行方不明者は2817人。南タイのホテル5300室の約4割が被害を受け、20万人の観光産業労働者が仕事に影響を受けた。また5467隻の船が被害を受け、12万人の漁業労働者が仕事に影響を受けた。

観光と漁業が主要産業である南西タイ。8月31日午前中に訪れたパンガ町から車で北に60キロ走ると、津波の被害のもっとも大きかったティンガ町がある。この町も観光と漁業で成り立っており、プーケットやピピと同様に外国人ツーリストが訪れるリゾートだ。海岸に沿ってたくさんのコテージとリゾートホテルが建っていたが、その大半が津波で損壊し、いまは再建工事があちこちで進んでいる。


町を南北に貫くメインの道路が海岸から1キロほど内陸を走っているが、そこを走ると、なんと船が丘の手前まで乗り上げ朽ち果てた姿をさらしているのが見えた。津波の被害がいかに恐ろしかったかを物語っている。

この町で最初に訪れのが、海岸に近いタブタワン村。高床式の竹で編んだ住居が建ち並び、人々の暮らしは貧しそうだ。そこは、海のジプシー(*ジプシーは差別用語だが、ここでは英語表現をそのまま使用する)と呼ばれているモガン民族の村。モガン民族は、インド洋周辺の国々(タイ、ビルマ、バングラ、インド、スリランカなど)の海岸沿いに暮らす少数民族で独自の生活様式と言語を持っている、いわば海洋民族だ。

タブタワン村の中心に、他の家よりはやや大きい高床式の建物があり、そこが国際NGOの支援で建てられた村の文化センターだ。そこでセンターのマネージャーであるウィンさんという20代の女性が私たちを迎えてくれた。

彼女が被災したときの様子を語ってくれた。

「モガン族は、先祖からの津波被害の言い伝えがあり、潮が大きく引いたのを村人がみ、て津波が来ると思って村人全員に声を掛けて、みんな丘まで走って逃げたの。だから被害にあった人はほとんどいなかった。壊れた家の再建など復興は大変だったけど、私たちにとって悪いことばかりではなかった。たくさんのメディアがここにやってきて、モガン民族ことを伝えてくれたおかげで、タイの人々が私たちの存在に理解を示すようになってくれた。それまでは、ずっと差別されてきたから。」

タイコミュニティラジオ放送連盟のビーチェンさんはティンガ町の避難キャンプ(1000人規模)でこの村人たちに出会い、村にコミュニティラジオを開設することを支援した。外国の財団の協力も得て、村でコミュニティラジオが始まったの津波から一ヵ月後のこと。

ウィンさんがラジオの役割について話してくれた。

「ラジオ放送するようになった何がよかったって、それはみんなが自信をもって自分達を表現できるようになったこと。それまではモガン民族であることを誇りに思えなかったから。そして次は教育番組をすることで子ども達の教育レベルが少しずつ上がってきたこと。ラジオ番組を通してモガン民族以外の人たちとも交流を持てるようになったこともとてもよかった。」

タブタワンという村の名前がつけられたモガン民族のコミュニティラジオ局は、モガン語、タイ語、ティンガ地方語、そして教育用英語の多言語放送で、スタッフはウィンさんを含め3名の女性スタッフと番組ごとにタブタワン村だけでなく他の村人が参加。津波の後の救援活動ラジオとして一年間の期限付きの放送だっだったので、2006年3月で放送を終えて借りていた機材を返却したが、村の人たちがコミュニティラジオの必要性を感じ、国際NGOのセーブザチルドレンの支援により新しい放送機材を購入し、ちょうど私たちが訪問した翌日(9/1)から放送を再開するところだった。

日本ではおよそスタジオとは思えない高床式の竹で編んだ建物の一室に、明日からの放送に備えて送信機とアンテナ、音響機材が用意さていた。「スタジオ」の隣の部屋には、太鼓などの楽器や絵画用具が置かれており、壁にはタイ語で子どもたちが描いた絵が貼ってある。モガン民族の子ども達が民族音楽などのモガン文化の表現活動をしているのだ。

まさにここは、たかとりコミュニティセンターのFMわぃわぃでり、RE:C(多文化な子ども達による表現活動プロジェクト)と同じ役割を果たしているコミュニティセンターだ。

津波から2年半が過ぎた南西タイの海岸沿いの田舎町で、マイノリティのエンパワーメントと民族を超えた交流が、コミュニティラジオの持つ大きな役割の一つであることを改めて実感することができた。

(つづく)
(記事、写真=日比野純一)