2019年3月9日のワンコイン番組~来週16日は再放送です!


3月9日のワンコインの参加者は、蔀より子さん、宮本健一郎Crew、ミキサーは上澤寛文Crew、スイッチャーは金千秋でお送りしました。

始まりの前に、様々なマシーンのテクニカルのトラブルがあり、申し訳ありませんでした。
いやいや生放送がいろんなことが立て続けです。来週16日は再放送対応ですので、ご参加を予定されていた方は、ご容赦くださいませ。

今回は、宮本Crewによる、日台友好歴史探訪旅行記その4最終回でした。
【日台友好歴史探訪旅行記5】
1 1947年2.28事件と白色テロ
1945年8月の日本の敗戦直後の中国は、蒋介石の率いる中華民国が代表する南京政府でしたが、政治的に不安定な台湾、中国、朝鮮では、イデオロギー対立の内戦が始まりました。

これらの地域における今にも続く混乱は、ポツダム宣言受託で、日本が台湾、朝鮮、満州を放棄しましたが、その地をめぐって、我先にと実力行使に突入し、それも東西陣営の代理戦争の様相となっていったことに原因があります。
(いつになっても人間は、戦争を求める生き物なのでしょうか。)
1946年国共内戦、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が戦います。
1947年2月28日、台北で抗議デモに憲兵が発砲、国民党は大陸から軍隊を台湾に派兵し徹底弾圧、史上最長1987年までの戒厳令が始まり、白色テロとなりました。白色とは、政権側による、テロとはテラー、恐怖で支配する意味です。

台北郊外では、当時の政治犯収容所をそのまま、国家人権博物館として整備し、当時の惨状を知ることが出来ます。
2.28事件で約3万人、白色テロで14万人が投獄されたと言われていますが、1995年以降、その実態が今も研究され、もっと多いのではないかと言われています。
軍事法廷(思想犯は全て軍事裁判)には弁護がありません。検察と裁判官だけです。収容所は台湾の東にある離れ小島、緑島にもあり、思想教育と強制労働が戒厳令解除まで続けられました。
この3名の方は、実際に投獄された方で、当時のことをお話し頂いています。
突然、国民党軍がトラックに乗って現れ、身に覚えのないことで逮捕されたり、逃げようとすると、その場で殺されました。
沢山の知識人や、医者、教師などが連れ去られました。こちらの方は、政治とは関係の無い「読書会」に参加したことを密告されて、逮捕されました。このように、密告社会ができあがり、誰もが疑心暗鬼に暮らすこととなりました。
捕まってからも、爪を剥がされたり、裸で後ろ手に吊されて、鞭で打たれるなどの、信じられない拷問が続き、命を落とす人も沢山いました。

囚人は狭い部屋に、折り重なってしか寝れない、あるいは立ったままでしか寝れないほど詰め込まれ、むき出しのトイレのそばで暮らさせられました。
空気がよどむため、真ん中に毛布を吊って、それをひもで引っ張ることで、空気の循環を得ていましたが、ひどい臭いのため、看守も近寄りませんでした。
この鉄の扉が開いたとき、
誰かが連れ出され、処刑されました。鉄の扉が閉まる音に囚人達は恐れ、連れ去られる人のために、お別れの歌を唱いました。 面会場所もあります。ただし、全部看守に聴かれていますので、滅多なことはしゃべれません。疑われると、家族やその周辺の方が捕まります。
独房もありました、旧西本願寺の納骨堂が使われました。
これほど残虐な拷問を受ければ、絶望の末、気が狂ったり、自殺者が発生したように思えますが、実はいなかったそうです。ボロボロに拷問されて動けなくなった囚人を、囚人みんなで、怪我をさすって看病するなど、囚人同士が助け合い、励まし合って生きていたからだそうです。
蒋介石の死後も、言論弾圧がありました。写真は1980年の美麗島(雑誌名)事件です。無許可デモを治安部隊が制圧した事件で、最高無期懲役が言い渡されています。民進党の出発点と言われています。
1949年国共内戦で国民党は敗北し、台北を臨時首都として台湾政府を樹立
1950年朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争勃発
1954年台湾海峡危機(1974年米中国交樹立まで続く)
1975年蒋介石死去
1976年毛沢東、周恩来死去
1988年蒋経国(蒋介石の息子)死去、李登輝副総統が総統に就任

2 江南事件と民主化 
1984年、蒋親子による長い圧政に、終わりを告げる事件が起こります。米国籍台湾人ジャーナリスト江南氏(本名:劉宜良)が、ロサンジェルスの自宅駐車場で殺害された江南事件です。
江南は国民党の内幕を暴露することで有名になり、国民党特務機関情報局長の汪希苓が台湾の「外省人」系暴力団のボス・陳啓礼に江南の暗殺を命じ、彼の部下が暗殺を実行した事件です。
米国は、汪希苓や陳啓礼らの引き渡しを要求しましたが、台湾側は拒否したものの、逮捕はせざるを得ませんでした。裁判も公開させられました。彼等の投獄は形ばかりのものでしたが、蒋経国政権は急速に弱体化、蒋家から総統は出さないと宣言し、蒋経国の死後、李登輝が総統となって民主化が進みます。
収監された方の名盤が展示されています。収監された期間、赤字は死刑、出っ張っているのは終身刑の方です。
1987年収容所廃止、人権博物館は、ようやく残酷な統治から開放され、当時のことがタブーでなくなり、台湾の歴史として記録、研究される施設であると共に、慰霊の場所にもなっています。

3 台湾が親日な理由
これまでの旅行記を基に、意地悪な見方も含めて、標記の理由を3つ考えてみました。
①三つ子の魂百まで説
部族社会の台湾を、最初に日本が50年かけて日本式近代国家に育て上げたため、台湾人の根っこが日本となってしまったから。
②犬が去って豚が来た説
五月蠅いがルールを守る日本統治に対して、国民党の腐敗や圧政統治が酷かったため、比較論で日本の方がましといった感覚から。
③単純に日本が素晴らしいから説
①に近いが、日本統治実績や今の日本を高く評価し、アメリカ大好き
日本人が、アメリカに憧れるのと同じ心理を抱いているから。
①~③以外にも理由があるかもしれませんし、年代によって強弱もあるでしょう。
更に、この理由を考えることで、日本とは何者か、台湾での経験を基に、同じように朝鮮、満州統治を進めたにもかかわらず、なぜ反日意識が今に及ぶのか?考えを深めてみればどうでしょうか。

4 これからの台湾
「美しい日本語を守る会」(友愛グループ)の方々とお話しすることが出来ました。友愛グループは、1992年6人でスタートし、2013年には137名まで増えました。
「私は元日本人だ、最初、豊中に住んでいて、横浜の工場で働いていた。」
「私は京都大学を出ました。」
など、当時の思い出を楽しそうに語られました。そして、白色テロの時代、そんな思い出を隠し通して生きなければいけなかったこと。
今も、日本との交易で暮らしていることや、子供や孫はアメリカに留学したことをお話頂きました。
1990年、初の台湾総統民主選挙が行われ、李登輝が当選しました。
1996年、次の総統選挙では、台湾独立を危惧する中国が、台湾海峡にミサイルを撃ち込み、米国は台湾海峡に第7艦隊を派遣、一気に緊張が高まりました。
これを契機に、中国はロシアから空母を購入、今に至っています。
これらの台湾海峡危機で、台湾の若者の多くがアメリカに留学しました。
旅行記の最後に、このような台湾人の心境を、友愛グループの劉さんの詩を紹介します。

半世紀以上前のある日
学校の先生が生徒に言いました
「今日からお前たちは皆日本人だ
北の方、東海の向こう
天皇陛下のおわす『内地』が
お前たちの忠誠を尽くすべき国家」

四十年前のある日
学校の先生が学生に言いました
「今日からお前たちは皆中国人だ
西の方、台湾海峡の向こう
中国大陸が
お前たちの愛する祖国」

二十年前の学生たちは、友達に言いました
「東の方、太平洋の向こうに広大な土地がある
皆一緒に移住しよう。
皆でアメリカ人になるんだ
我々のドリームはアメリカにある」

今の大人たちは、自分のアメリカの子供たちに言いました
「太平洋の向こうの 小さな小さな島
緑濃き山々 清らかな流れ 淳朴な人々
あそこがお前たちの故郷
我々の真の国土なのだ
暖かい母親のふところよ
赤子のゆりかごよ」

ふところは何処に?
ゆりかごは?

さみしい台湾人よ、流浪の台湾人よ!
どうしてお前の故郷は
何時も海の向こうでなければならないのだろう!

国立博物館を見学して、台湾を後にしました。
次は、もうちょっと観光したい!