軌跡は人間が起こすもの。

2010年3月ゲストカトリック大阪大司教区 教区本部事務局長 神田裕さん

 

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NPO法人たかとりコミュニティセンター代表
前カトリックたかとり教会主任神父

 

(カトリックたかとり教会内にあるFMわぃわぃスタジオの前で、NPO法人たかとりコミュニティセンターの事務所が入っている敷地の一番奥にある聖堂前のキリスト像をバックに(左)神田神父(右)西條さん)

 

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**震災の時救援基地になったカトリックたかとり教会、たくさんの人々が救援基地の「たきび」を目指してやってきた。
現在は「たきび」というメールマガジンを全国に配信している。
2010年1月17日の15年目を迎えた「たきび」の中から神田さんの文章を添付します。

 

<かんちゃん日記>

– 震災とキリスト像とベトナム人 –
震災で焼失した長田のまちの片隅に教会がある。
カトリックたかとり教会だ。焼け残った奇跡のキリスト像で話題になった。何が奇跡かと言うと、キリスト像が火を止めたというのである。
まさかそんなことはない。
キリスト像は1992年にベトナムから船に乗ってやってきた。
いわばボートピープルだ。不審物の疑いがあると1カ月ほどは港から出してもらえなかった。やっとのことでたかとり教会にやってきた。
たかとり教会に最初のベトナム人家族がやって来たのは1980年のことった。ベトナム脱出を何度も失敗し投獄され、やっとのことで日本に、そしてたかとり教会にやってきた。
ちょうど15年たった1995年1月17日早朝、大きな揺れに揺り起こされ、気が付いたら潰れた家もろとも外に放り出された。貧しい家に住んでいたから自分の家だけが突然潰れたと思い、その瞬間子どもたちはとても恥ずかしかった。幸い家族みんなの命は助かった。

当時たかとり教会のベトナム人たちは信徒全体(約650名)の三分の一程になっていた。みんな家や職は失ったものの命だけは助かった。被災者はみんな、学校の校舎や公園のテントで生活をした。ベトナム人たちももちろん同じだった。ただ言葉や文化や習慣の違いで別の苦労もあった。

そんな彼らと共に歩もうと、全国から多くのボランティアの人たちが駆けつけてくれた。言葉のハンディや文化や習慣の違いを一緒に担ってくれた。教会の中に救援基地ができ、震災復興や新しいまちづくりに力を尽くしてくれた。震災情報の通訳、翻訳、そして電波を使っての多言語情報伝達FM放送局へと発展していった。地域のお祭りでもベトナム料理が食べられるようになり文化も少しずつだが浸透してきた。

救援活動からまちづくりへとの思いを持って、2000年にたかとり救援基地はNPO法人格を取得し、たかとりコミュニティセンターとなった。2007年5月には教会建物もようやく再建され、その中にNPOセンターやFM放送局も共存している。多文化なまちづくりの新たなスタートが始まっている。

つい先日、たかとり教会で一人のベトナム人女性が帰天した。くも膜下出血での突然死だった。子どもたちのために働き続けたのに、小学生の末っ子を含め4人の子どもたちを残して神様の元へと行ってしまった。彼女が小学生の時、ボートピープルとして親に連れられ命からがらこの日本にやってきた。神様に守られて命があることに感謝した。それから15年目に震災にあった。家は潰れたが、やはり神様に守られて命があることに感謝した。それから15年。神様は「ご苦労さん、もういいよ」と言って彼女を身元にお呼びになった。まだ若いのに何故に「もういいよ」なのかは私には理解できない。

たかとり周辺のまちづくりにとっては色んな意味でベトナム人たちの存在はとても大きい。彼らを取り巻く人々の力がこの地震の後のまちを支えてきたと言っても過言ではない。彼らがたかとりに住み始めてちょうど30年たち、震災を挟んでちょうど折り返し地点に差しかかった。これからは2世、3世たちが新しい時代を創って行ってくれるのだろう。

キリスト像が奇跡を起こしたと騒がれた。そんなことはないと自ら否定した。
しかし15年たった今、もし問われることがあったとすれば、きっと言うだろう。キリスト像は奇跡を起こしたと。30年前に船に乗って私たちのところにやってきたベトナム人たちは、本人たちの意識のせぬところで、たかとり、そして神戸のまちづくりの大切な要素になっている。

キリスト像の台座にはベトナム語、韓国語、日本語で聖書の言葉が刻まれている。「互いに愛し合いなさい」と。お互いを大切にし合って関わるならば、きっと奇跡は起こるのだと確信している。

2010年1月17日。私たちは震災から15年を迎える。     神田裕