長田とベトナム

多文化共生のまちづくり

出典:左義長保存会

長田とベトナム

日本の近代化において、海沿いに位置する長田は重要な役割を果たしました。海外から材料を輸入しマッチ産業、ゴム産業、そしてケミカルシューズ産業が長田で発展を遂げました。同時に多様な人びとも海を渡って日本にやってきたことから、朝鮮半島、沖縄、奄美群島、ベトナムにルーツを持つ人びと、そして一度日本から南米に渡った人びとが長田で暮らしています。

出典:(公財)アジア福祉教育財団 難民事業本部

長田とベトナム人

長田にベトナム人がやって来たのは、1982年の頃だと言われています。当時、彼らの母国であるベトナムは、長期化したベトナム戦争の影響により大変な混乱状況にありました。そのため、ベトナムでは、難民として国外に脱出する人が相次ぎました。ベトナム難民の多くは、船を用いて国外脱出を試みたことから、長田にやって来たベトナム人は、小さな漁船に乗りこみ、大海を漂流した後に日本へやって来た人たちです。

出典:長田区

ケミカルシューズ産業とベトナム人

難民としてやって来たベトナム人は、姫路市にあった生活訓練施設で数ヶ月間過ごした後、長田へやって来ました。多くのベトナム人が長田へやって来た背景には、地場産業であるケミカルシューズ産業の存在があります。ケミカルシューズ産業は、長田で暮らす多様な人びとを労働力として吸引してた歴史があります。その中でも在日コリアンは、経営者としてケミカルシューズ産業をけん引する存在でもありました。

出典:在日韓国商工会議所

円高の影響により好景気だったケミカルシューズ産業でしたが、一方で慢性的な人手不足に悩まされていました。ケミカルシューズ産業のピンチを救ったのは、難民としてやってきたベトナム人でした。

推測の域を出ませんが、「外国人」であるベトナム人がケミカルシューズ産業に参入することができた背景には、長年にわたり日本社会から「外国人」として扱われ続けている在日コリアンの存在があるのかもしれません。

長田で定住を始めてから10数年が経過すると、ベトナム人の生活は徐々に安定してきました。ケミカルシューズ産業構造の中で職工という地位を獲得し、ケミカルシューズ産業にとって、ベトナム人はなくてはならない存在となりました。職人的な技術が求められる職工となった者の中には、より良い条件を求めて工場を「わたり歩く」者も現れました。

—1995年1月17日、午前5時46分、阪神・淡路大震災が起きました。

長田の多様性を育む地域産業
ケミカルシューズ産業 (ベトナム人篇)

出典:神戸新聞NEXT

阪神・淡路大震災とベトナム人

地震で家や仕事を失ったベトナム人は、学校に設けられた避難所に身を寄せました。しかし、そこで「外国人」という理由から差別を受け、避難所にいることができなくなりました。あるベトナム人は避難所で差別を受けたことについて、「私たちは日本にいさせてもらっているのだから、(差別をされても)仕方がない」と語りました。避難所を出で行かざるを得なかったベトナム人は、南駒栄公園でテントを張って生活を始めました。

出典:神戸新聞NEXT

長田の歴史を紡ぐベトナム人

長田のベトナム人は、戦争と地震という二度の喪失を経験しながらも、時間をかけてさまざまなものを作り上げてきました。例えば、ベトナム料理を作る際に必要な食材店や、手間ひまがかかるベトナム料理を手軽に食べることができるベトナムレストランがあります。また、精神的な拠り所としてのベトナム仏教寺ができました。仏教寺は、自分たちで土地と建物を購入し、自分たちの手で改装しました。近年では、ケミカルシューズ工場を立ち上げ、経営者としてケミカルシューズ産業を支える者もいます。

出典:たかとりコミュニティセンター

およそ40年前、故郷を離れざるを得なかったベトナム人は、長田にもうひとつの故郷を作り上げました。長田の共生の歴史を織物生地に見立てると、ベトナム人が新しい色を加えたと考えることができるかもしれません。これまでも多様な文化的・社会的背景を持つ人びとによって紡がれてきた長田の共生の歴史は、これからもさまざまな色を織り交ぜながら紡がれていくことになるでしょう。【執筆者:野上恵美】

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