今月の南の風~奄美編 大橋愛由等さんの22年間毎年の奄美諸島訪問の記


「南の風」2017年2月の放送
2月18日土曜日5時からの「南の風~奄美編」は大橋愛由等(フランス革命の旗印!愛と自由と平等から名づけられたそうです)さんの担当。22年間毎年通っていらっしゃる奄美諸島訪問の報告です。
2月は、阪神淡路大震災の翌年(1996年)から毎年つづけている〈奄美ふゆ旅〉の様子を紹介しています。
この旅は、ちょうど1.17の前後に設定しているのです。すなわち、私・大橋愛由等にとって、再生=蘇りの意味を持ちます(毎年1.17がくるたびに震災の追体験をして仮死のシンパシーに陥り、奄美に旅に出ることで、蘇生するイニシエーションを繰り返す、ということ)。

22回目の〈奄美ふゆ旅〉は、ここ数年定番のコースになっている沖永良部島、徳之島、奄美大島(いずれも奄美群島)の三島を訪れました(1月16日~19日)。2月の放送では、沖永良部島のことを中心に語っています。
とくに強調したかったのは、沖永良部島の「墓正月」の民俗行事を実見したことてです。これは、毎年きまって一月一六日に行われる祭祀で、わたしが見学したのは、沖永良部島のいくつかある集落のなかでも、「墓正月」の習俗が濃厚に残っている瀬利覚(じっきょ)集落にある朝戸家の墓所でした。

本土の墓と違うのは、墓所のスペースが広いこと、そして低い壁に囲まれて独立性が高いことです。墓石の形状そのものは本土と同じで、沖縄の亀甲墓は奄美には入ってきていません。墓所のスペースが広いのは、一族が寄り集まって飲食をするためであり、この日のために本土に働きに出ている家族が還ってくることもあるのです。

「墓正月」というのは、正月に先祖を家に迎えて、正月を共にすごし、そして一月一六日に家から墓に帰すための祭祀であると位置づけられています。瀬利覚を含めて、この「墓正月」の際に、特別の呪謡や唱え言葉はありません。きわめて私的な領域の家族祭祀です。

わたしが訪れた朝戸家の墓所にも夕刻になると、親族が集まってきて、にぎやかな宴会が始まろうとしていました。ちょうどその時、鹿児島県文化財課の調査チームも「墓正月」の調査に入っていて、旧知の小川学夫氏(奄美歌謡研究者)と出会い、奄美の文化について意見を交わしたのです。

この「墓正月」に関してもうひとつの視点を紹介しておきましょう。それは民俗・歴史研究者の先田光演氏(沖永良部島在住)の識見です。それによると「墓正月」はあくまでも個人祭祀であるので、集落(シマ)や島全体に敷衍することはない。沖永良部島にはかつて豊潤に集落単位の共同祭祀があったのですが、他の奄美群島の島とくらべて極端に減ってしまったのです(同じ北山文化圏である与論島には〈島建て〉とかかわるシニグ祭が継承されている)。そこで去年に行われた「世之主六百年祭」のように島全体を包括した祭祀をあらたに創出してもいいのではないかと語っています。(世之主とは沖永良部島を統治していた北山王国系の支配者で沖縄本島を統一した中山勢力が軍船をひきいて沖永良部島にやってきた一四一六年に自害。その年からちょうど六百年にあたる去年、いくつかの記念行事が行われました。)
使われる音源は、FMYYレーベル、ジャバラレーベル、そして大橋さん自ら収録された楽曲が流れます。