2019年7月奄美専門チャンネル~南の風「令和時代の奄美について語ろう」


元号があらたまてはや三カ月。奄美はいったいどのような社会になるのでしょう。
7月分の放送では、奄美のさまざまなテーマから「奄美NOW」をお知らせします。 「令和時代の奄美について語ろう」

〈奄美かたり①〉
★奄美群島の人口についてです。かつて戦後すぐの一時期、群島の人口が22万人となった時期がありました。2019年4月現在の推定値では、104.166人。このままでは10万人を割るのは時間の問題です。その中でも人口が増えた自治体があります。奄美大島の南部に位置する瀬戸内町。陸上自衛隊の奄美整備隊瀬戸内分屯地があたらしく出来て、多くの陸自の隊員とその家族が新しく住み始めたからです。こうした新しい人たちが島に住み始めることを歓迎する人たちはいます。この部隊は、同じく奄美大島奄美市にあらたに設置されたミサイル部隊を警護するために配属された組織です。つまりミサイル基地が攻撃される時のために警護する部隊としてミサイル部隊とセットとして配属されたものです。かつて米軍の海兵隊基地が徳之島に移設されることに対して反対運動が島ぐるみで起こりましたが、日本の陸上自衛隊の基地が奄美大島に新たな基地を設置する際には、島ぐるみといった大きな反対闘争は起こらなかった(もちろん反対運動は存在しますし、その運動は継続しています)。今は自衛隊基地が新しくできたことで、1.人口が増えて過疎化が緩和される。2.大きな災害が起きた時、同じ奄美に部隊がいればすぐかけつけてくれる。3.地元経済になんらかの貢献がある(つまり地元で消費され還元される)ことが期待される――といった利点を誘致賛成派は唱えますが、いざ戦争や戦争状態になった場合、ミサイル基地や通信基地などはまっさきに攻撃される対象のひとつであることを忘れてはいけません。

〈奄美かたり②〉神戸と奄美に水田はあるのか?
★神戸市内に住んでいると、田畑を見ることはありません(市内でも六甲山系の北側に位置する北区、西区には田畑があります)。六甲の山々と海にはさまれた場所には住宅、工場、都市施設はあるものの田畑は見当たりません。奄美群島で発行されている新聞(南海日日新聞)を読んでいると、田植えが記事になります。それだけニュース価値があるということですね。

徳之島町井之川で陸稲づくりを始めたという記事が載っていました。当初水田を予定していたのですが適地がなく断念。作った米は甘酒をつくることを目指して地元と焼酎メーカーと連携するそうです。

そういえば、水田といえば、徳之島町山(さん)という集落に田植え歌「与路(ゆる)ぬ与路(ゆる)御田(くまし)」という歌が伝わっています。与路島の真ん中あたりに周囲から区別されている場所があり、そこがノロ(祭祀者)に与えられた水田の跡だと伝承されています。奄美に伝承されているシマウタ、八月踊り唄は、土地と結びついていることが多く、それが現在でもその場所で確認できるというのは面白いことですね(その与路(ゆる)ぬ与路(ゆる)御田(くまし)」を収録したCDがFMわぃわぃCDライブラリーから発売されています。坂本武広「徳之島山の島唄」)。

〈奄美かたり③〉奄美の一字姓について
★奄美には、漢字一字姓の人がすくなからずいます。これには近世以降の歴史がからんでいきす。その経緯について書いた文章を、わたしが奄美の日刊紙である南海日日新聞のコラム「つむぎ随想」に書いていますので、読んでみてください。

///////////////////南海日日新聞2019.07.19掲載 大橋愛由等「つむぎ随想」奄美の一字姓をめぐって」/////////////////////
神戸には奄美出身者が多い。私が通った私立高校で親しくなった友人のひとりに沖永良部島二世の前裕二君がいた。「僕の本当の名前は〝すすめ〟なんだけどみんなそう呼んでくれないから〝まえ〟と名乗っているんだ」。

奄美の一字姓について語ろう。この一字姓がいつから生まれたかについてははっきりしている。1783(天明3)年の芝家(大島)からである。それ以前に田畑(大島)、砂守(徳之島)の二つヤマト風な二字姓が薩摩藩によって認可されていたが、当時の藩主・島津重豪の判断によってこの両家もこの時一字姓に改姓されている。

重豪は当初島人には名字は不要だと発言していたのだが、財務担当の家老から「奄美では名字を持つことがすでに奄美の中で権威づけられ、そのことが藩へ貢献することになる」と反論される。それではヤマト風な名字をやめて一字姓にせよとなった。薩摩藩は以前から奄美の人たちに対して「島人相応ノ姿」を求めるなど非日本化政策を進めていた。

この史実に対して見解が分かれている。弓削政己氏は重豪の判断の背景にあるのは、当時の東アジア諸国を律っしていた冊封体制への認識があり、「奄美の島々が朝貢・冊封体制の関係で薩摩藩の直轄支配を隠す必要からして、朝貢・冊封体制化の東アジアに共有する一字名字は、好都合だった」と判断する。

これに対して先田光演氏は「一字姓は郷士格のみに与えられている。郷士格そのものが本土領内の郷士と区別(差別)するための名称であった」と薩摩藩による差別政策の一貫であると主張。一字姓が生まれたことと冊封体制の直接的な関係はないとする。

幕末(1852年)において郷士格として一字姓を名乗る人たちとその家族は全人口の一・八%に過ぎなかった。明治になってすべての国民が名字を持てるようになると奄美では一字姓を選ぶ人が少なからずいた。しかしその東アジア共通の一字姓ゆえにその歴史的経緯をしらないヤマトの人からの無理解の視線にさらされることになるのである。

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いかがでしょうか。明治時代となり、奄美群島は、実効支配していた薩摩藩の後継である鹿児島県の行政区に入ります(琉球王国は建前上自分たちの領土でありつづけた奄美を返還するよう要求しますが維新政府は無視します)。奄美の人たちが鹿児島以外のヤマト(本土)に経済移民として移動するようになると、自分たちが選んだ漢字一字姓が、朝鮮半島、中国大陸の人たちと同一であることを実感します(奄美の人たちの中には最初からヤマト風漢字二字姓の人や、鹿児島風の三字姓をつけるひともいた)。奄美が一字姓になったのは、17世紀の東アジア情勢が反映しものであるのですが、ヤマト(本土)の人たちがそうした歴史的背景を知る由もなく、奄美の人たちの漢字一字姓を朝鮮半島、中国大陸と同一視するようになります。自分たちは明治以降に広まった国民国家の枠組みによって「日本人」であると思っていたのに、朝鮮半島、中国大陸の人たちと同一視されることを忌避する傾向も強くなってきます。そこで改姓(漢字二字姓)する人も増えてくるのですが、その話題は次の機会に譲ることにしましょう。
〈奄美かたり④〉いくつかの話題
A/6月15日に行われた「第40回奄美民謡大賞」で、住姫乃さんが〈嘉徳なべ加那節〉を歌い、「奄美民謡大賞」「青年の部最優秀賞」に輝きました。(最近のシマウタの傾向として、奄美民謡大賞に出演希望する人は多いのは変化はないのですが、その大賞を選ぶ会場に足を運ぶ人が少なっていると聞きます。つまり歌いたい人は相変わらず多いのに、それを聞こうとする人が減っているということです。この奄美民謡大賞は、大賞に輝いたウタシャは、歌が上手というだけではなくて、奄美の伝統文化を継承していく伝道師としての役割も期待されるのです。そうした新たな奄美文化の担い手が誕生するのがこの「奄美民謡大賞」の舞台なのであり、奄美にとってまたとない祝祭的な場でもあるのです。

大島でウタシャの声を拾ってみると、若い人がシマウタを聞かなくなった、といいます。それはひとつには、言葉の問題もあると思われます。シマウタで使われる歌詞は今の若者にとって「奄美古語」であるため、とっつきにくいこともあるのでしょう。)

B/奄美市の大熊集落にあった「トネヤ」が解体されました(5月)。大熊集落には二棟の「トネヤ」があるうちそのうちのひとつが消えたのです。大熊集落は大島の中でもノロが祭祀が続いていた数少ない集落の一つでした。ちなみに「トネヤ」とは、ノロが祭祀を行う建屋で、その横にある「サントネ」は親ノロしか住めない住居です。ノロ(女性神官)は琉球王国が王国を支配する宗教制度の一つとして400年前から続いているもので聞得大君(琉球王の親族の女性)から任命されてきました。いま奄美ではノロ祭祀は行われていないのが現状です(生存しているノロはいますが、高齢のために祭祀は行われていないようです)。