「音源ライブラリ「長田今昔物語」」カテゴリーアーカイブ

「長田今昔ものがたり」第73話

第73話 神戸市の震災後の都市計画、「市民から見る」 2017年12月2日放送

須磨在住の井上さんは建築家でもある。震災復興・都市計画では、行政主導ではなく市民が大いに協力したと話す。条文化の前に、市街地、海上部分、山林地域と、10~20年をみすえ、市民に公表された。震災後、2~3年で家などは復旧した。幹線道路もすばやく須磨まで完了。道路整備においても地域住民の絶大な協力があった。勿論、仮設住まいのご苦労という側面も忘れてはならぬが、家の建設でも、一般道路の幅の確保のため、住民はセットバック(道路の境界線を後退させること)の協力を行った。家のつくりも、土を乗せ瓦をはる工法は改善され、屋根の重みも減少した。住宅の基礎や骨格が全体的にしっかりとなったのは、すばらしいことだ。


73話 西須磨の旧家があった旧上之町近辺、現、菅の井広場

「長田今昔ものがたり」第72話

第72話 仮住まいと復興住宅 2017年11月25日放送

震災でたくさんの家を無くしました。自宅、預かっていた弟の須磨の家、祖父母の時代からお貸していた住宅、それに店舗。幸い近所の妹の家は健在で、家族はそこに居候しました。社員の中で一番の被災者で、会社は園田寮を提供してくれました。自宅は借金し、1年半後に新築できました。店舗付き住宅は4階建てで2年後に完成、この借金は今年完済できました。依頼され、「民間借上賃貸住宅」を2年半後に完成しました。従前の方が10名入る予定でしたが、時間の経過で6名の入居となりました。自分にこんな大きな借金ができるとは思ってもみませんでした。あと15年間、16戸+1店舗のお守りが残ります。


72話 須磨の家 全壊(1995年1月17日)

「長田今昔ものがたり」第71話

第71話 震災23年目を迎えて(震災シリーズ) 2017年11月18日放送

12月ころから、JR新長田駅前の追悼行事の準備がはじまります。子どもたちに1月17日当日に使ってもらう「ろうそく」を作ってもらいます。今回から10回ほどは、井上さんも含め、阪神淡路大震災の「十分には語られなかったこと」を話します。ワダカンは当時51歳、いま73歳。いまだ復興住宅のローンが88歳まで残っています。物損があったわけですが、家族に死者はなく、会社も赤字部門(我々のカメラ事業)をかかえていましたが、60歳定年まで働けました。震災の3月くらいから、ミニコミ誌発行やFMわぃわぃでボランティア活動に入れてもらったおかげで、「難有り、有り難し」の生活が送れています。


71話 わだかんの寝室(1995年1月17日)

「長田今昔ものがたり」第70話

第70話 須磨の近代文化遺産(閑話休題) 2017年11月11日放送

井上さんが須磨で見つけた「これ! こんなトコにあるの?」という100年前後の文化遺産を紹介します。まずは国鉄(JR)の海岸添いの「防波堤」。石積みであって、「そり」があって、「波返し」まで細工されています。またの自慢は「天神橋」。そう、JR線路をまたぐ「跨線橋」です。昭和2年の設計ですが、すでに複々線を見通し、広く作られていたのです。この橋は昭和8年に「市電」も通る橋になります。離宮道を歩いてもらうと、今でもお金持ちのお屋敷の塀が50mほど残り、また、屋根に趣きがあり、小窓もしゃれていて、下の方には御影石がつかってある……。ともかく、散歩でも、いろんな発見ができます。


70話 須磨の近代文化遺産? 現JR須磨-塩屋間「須磨の浦」波返しの石崖、震災にも被害なく100年ほど路線を守っている

「長田今昔ものがたり」第69話

第69話 紡績業、戦後の流れ(産業編まとめ) 2017年11月4日放送

産業編の締めくくりとして、カネボウの果たした役割と西神戸の地の力についてお話します。カネボウが紡績工場として選んだ土地は、清盛が新しい都を作ろうとした長田南部に近く、江戸時代、吉田新田として農地用に開拓された土地でもあります。文明開化で牛肉を食べるようになり、新しい野菜、たまねぎの価値があがり、玉ねぎ畑になっていました。大きな紡績工場ができ、殖産興業の「時期」に、武藤山治さんという「人」と、よく働く「人々」を得て、水と光がいっぱいの「場所」で、数々の産業が生まれるきっかけとなっています。農業から工業に転換した私たちの地域は、これからも「時・人・場所」を生かします。


69話 神戸百年記念病院(旧鐘紡病院)

「長田今昔ものがたり」第68話

第68話 須磨の別荘と良主、住居の線引き 2017年10月28日放送

須磨の井上さん、神戸ではなじみ深い「ええし」という表現を「良主(えいしゅ)」で説明されます。住友さんとか須磨の別荘に住んだ人々もそうですが、西国街道沿いの旧家(前田さん、頼広さん、貴答さんなど)の方は御屋敷に住み、大正モダンというか、どことなく品があって、お金には執着しない、うらやましい存在でした。武庫離宮があったからかもしれません。一方須磨には、菅原道真の時代から漁師が住み、職人さんもいて、うまく住み分けてもいました。東西に2本の路線があり、地域もわかりやすいです。「良主」と「庶民」との小学校での、いまでいう「いじめ」も限定的でした。


68話 須磨の別荘と良主
(戦災・震災を耐え残る須磨の良主の邸宅。須磨区離宮前町には戦後までお屋敷が5~60邸あったが、現在は2邸のみとなった。)