「音源ライブラリ「長田今昔物語」」カテゴリーアーカイブ

「長田今昔ものがたり」第67話

第67話 お菓子やレトルトの工夫 2017年10月21日放送

「鶯ボール」は西尻池の「みなとや」のお菓子です。植垣さんです。マーケティングの工夫がすばらしい会社です。この近くの実業家で水垣さんがいます。MCCを創業された方です。レトルトでは超有名企業となっています。お話を聞けば「材木」が縁のようです。西神戸が大発展していた1900年はじめ、マッチ産業だけでなく、材料としての木材が大きな商売でした。水垣さんのご親戚は北海道で森林をもっておられ、「中村マッチ」の中村真次郎の勧めがあり、真野で缶詰ビジネスを始められたようです。ロシア人のモロゾフさんのチョコレート事業を真野で引き継いだ葛野さんも材木商で、バレンタインチョコで有名です。


67話 みなとや(西尻池)

「長田今昔ものがたり」第66話

第66話 マーガリン発祥の製油業 2017年10月14日放送

苅藻島の手前に「ミヨシ油脂」があります。かつての神戸の大商社の鈴木商店の油脂部門を1960年ころに引き継いだ会社です。1910年に東大卒の久保田氏が魚油を使ったマーガリン作りの研究を始め、鈴木商店(兵庫製油所)が市販しました。この地は「硬化油脂工業の発祥地」と言われています。バターが手に入らず「代用品」として「人造バター」が重宝された時代でした。ミヨシ油脂は真野地区の大企業として地域密着の活動をしています。製油業としては、高松橋の近くに「不二製油」もあります。大豆たんぱくの「あぶらあげ」等を作っています。門のそばの鉄製の「窯(かま)」がこの企業の歴史を語っています。


66話 ミヨシ油脂(石鹸も製造)

「長田今昔ものがたり」第65話

第65話 西須磨の職域と店舗(閑話休題 ) 2017年10月7日放送

1920~1930年代の話です。須磨の枕言葉は「風光明媚・白砂青松・気候温暖」といった好印象のものが並びます。その中で、西須磨は南北約2kmで東西が約3km、面積は三角形で約6km²です。この狭い地域の職域と店舗を見てみると、多彩な店・職人・珍しい職種がでてきます。医師がなんと22軒、植木屋12軒、酒屋11件、花屋、旅館、ブリキ屋、そして大工・棟梁、職人さんも大勢いました。勿論「大師もち」も売られていましたが、ロシアベーカリーという「パン屋」さんも人気でした、小銃を修理する鉄砲屋とか、日本刀を研ぐ「刀屋」など、須磨ならではの「たたずまい」でした。


65話 須磨寺前商店街の賑わい


昭和初期の須磨寺前商店街の地図
(クリックしていただくと井上氏作の地図ファイルが開きます)

「長田今昔ものがたり」第64話

第64話 製糖業と台湾 2017年9月30日放送

砂糖は高価な品でした。小麦粉が手に入り、高い玉子と、砂糖で、西洋風につくったのがカステラや瓦煎餅。製粉の増田さんは西神戸に進出する前は横浜で砂糖屋さんでした。そこの番頭の湯浅さんが独立し、兵庫運河沿い(東尻池)に1908年に開いたのが「神戸製糖」です。これを三井資本の「台湾製糖」が1911年に買収します。台湾は1895年に日本領土となり、両地域で砂糖の生産・販売が活発になります。1945年の日本の敗戦で台湾の地を失います。わだかんの子どものころ、まだ「台糖」の名前は有名で、砂糖は「台糖」でした。今「三井製糖」の看板が残ります。「台糖」の名前がどこかに欲しいです。


64話 三井製糖(台湾製糖ゆかりの場所)

「長田今昔ものがたり」第63話

第63話 須磨の国鉄沿線、海岸 2017年9月23日放送

須磨の井上さんが子供のころ聞いた須磨のコワイ話。大正から昭和にかけての話をされます。海岸があり、松林があり、住宅街から離れた須磨浦あたりは、鉄道や、入水や、松林の「事故(自殺)」が少なくはなかったようです。しかし、「ちょっと待て 神は愛なり」という防止の札を立て、救命活動をする牧師や婦人団体、加えて、企業人などからなる「方面委員会」という組織も困窮救済にあたりました。妹尾河童さんの「少年H」でも、一の谷で、河童少年が自殺を試みるシーンがあります。幸いこの地域では、戦後から現在に至るまで事故はなく、立て札もありませんが、時に花が供えられています。


63話 2号線、一の谷検問所跡。この辺りに「一寸待て 神は愛なり」の標識柱があった(供養は今も続けられている、写真下)

「長田今昔ものがたり」第62話

第62話 スイーツ支える製粉業 2017年9月16日放送

今回は「粉」の話です。メリケン波止場という名前が残っているように、メリケン粉(小麦粉)は、そのほとんどがアメリカ・カナダから船で輸入されました。増田製粉が梅ヶ香の兵庫運河支流に工場を建設したのが1906年。翌年以降、日米精米製粉や日本製粉や日清製粉まで運河沿いに操業しています。パンは軍隊の携行食としても重宝されました。1945年の敗戦のあと、小麦粉は政府が直接管理し、増田製粉など大手だけが残りました。米国の戦後の小麦粉輸出政策もあって、給食がパンとなり、和食の中にパン食が入り、ケーキ文化も定着し、増田製粉では、良質の小麦が今もサイロで保管されています。


62話 増田製粉のサイロ