「音源ライブラリ「長田今昔物語」」カテゴリーアーカイブ

「長田今昔ものがたり」第34話

第34話 明治維新前夜の村々 2017年3月4日放送

江戸時代後半、人口増に伴い、新田の開発が奨励された。1833年、東尻池村の末正さんは大阪の吉田さんと今の和田山通のあたりで、甲子園球場7~8個分(68石)の新田を開発。いまも「吉田町」という名前が残るし、1894年にはカネボウがあたりに紡績工場をつくることになる。自立した住民がいたことがわかる。西尻池でも庄屋の藻川さんの活躍の記録もある。明治維新のあと、前の領主の鈴木家に以前に貸したお金を堂々と取り立てている。高福寺で寺子屋を開き、漢文を教えた人でもある。寺子屋は東尻池(宝満寺)にもあり、これが1873年には「真野小学校」となってゆく。自立住民のおかげでもある。


34話 西尻池の真野山高福寺

「長田今昔ものがたり」第33話

第33話 隠れた偉人、濱田篤三郎 神戸開港に貢献 2017年2月25日放送

神戸では「濱田篤三郎の名前はよく知られていない、神戸開港に寄与した人物であるのに」と須磨の住人・井上さんは指摘する。濱口氏は1868年の神戸開港と同時に、和歌山から神戸に移住した。元町を拠点に外国人向けの古美術品の販売や雑貨の輸出業を展開した。当時、輸出入は外国商社が主導権をにぎり、日本側は不利だった。外国人を通さずに、日本人が直貿易をするため、居留地にて同業者組合である「丸越組」を1881年に設立した。米英仏などへの販路を築くなど海外貿易の基礎をつくった。「東の渋沢、西の濱田」と言われたという。(神戸新聞2011年12月6日夕刊にて、井上氏などが濱田氏の手記を紹介)

33話 濱田篤三郎関係写真(準備中)

「長田今昔ものがたり」第32話

第32話 船からの朝鮮、ロシア 2017年2月18日放送

朝鮮半島に入り、当時の中国(明)まで占領しようした秀吉のふるまいは、今も半島では「壬辰倭乱(じんしんわらん)」として語り継がれています。徳川の世になり、朝鮮国と信(よしみ)を通じあうことが大切とし、1811年まで12回にわたり、「朝鮮通信使」が日本にやってきています。400名を越すグループで、海路で寄港する接待も1年前から準備するほどでした。兵庫津にも宿泊しました。港のある町は海洋での国際進出の話も残っています。淡路出身の高田屋嘉兵衛は、北方の海路を開拓、ロシア人とも毅然として交渉し、ロシアの「日本人観」の基礎をつくったのです。


32話 のろしの場所(いまの長田港)駒ヶ林にて

「長田今昔ものがたり」第31話

第31話 村の楽しみ 2017年2月11日放送

つつましやかな生活の江戸時代、福原西国33か所巡りとかのお寺まわりもありました。京都の愛宕神社に参拝するグループ「愛宕講」というのも東尻池村にありました。「火の用心」のお札を代表がもらいにゆきます。お酒2升持参したり、船頭のチップを配慮したり、おみやげも持ってかえります。報告用に金銭も細かく記録されています。要る人にお金を融通しあう「頼母子講」、女子会のはじまりと言っていいようなグループ会合が昭和の半ばまで続いていました。ハレのオフ会、男性も女性も「寄り合い」をつくり、うわさ話に花を咲かせる楽しみもあったのです。


第31話 愛宕講諸色覚帳

「長田今昔ものがたり」第30話

第30話 皇室と須磨寺のいろいろ(閑話休題) 2017年2月4日放送

なにげなく使っていた「離宮道」、井上さんのお話をお聞きください。なんと天皇が通られる「天皇道」もあったのです。離宮公園に天皇のお住まい(武庫離宮)があったことは、うっすらとした知識の中にありました。加えて、地震などの天災のときの避難場所として須磨寺の特別室の存在がありました。須磨寺客殿の唐破風の玄関が片寄っているのは、その正面に参道よりの天皇道があったからと言われています(違う見方をしている人もおられるようですが)。須磨寺の正式名は「上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)」、毎月20日、21日は「お大師さん」でにぎわいます。文学碑も多いです。慶長の大地震(1596年)前までは12坊もあったとのこと。ゆっくりお寺を見学(お参り)ください。


30話 須磨寺・伽藍「客殿」は創建時に武庫離宮の避難所に指定

「長田今昔ものがたり」第29話

第29話 村からの報告(明細帳) 2017年1月28日放送

江戸時代、1711年、村の記録が残っています。「東尻池村明細書綴」です。周辺の村々が丁度、天領(幕府領)に変更された頃です。税として、納めるお米は尼崎城まで運んでいました。村民は685人(男307人、女378人)耕作用の牛は大切なので、72匹とカウントされています。お寺は、門福寺は今ありませんが、宝満寺、法隆寺、極楽寺は場所を変え存在しています。船はなく、漁師はいず、茶屋、旅館もないと記されています。生活のつつましさも感じられます。城下町ではなく、超有力な土豪はおらず、農民の代表者で、ある程度、民主的で自立的な運営が行われていたのです。


29話 真野山 法隆寺 (東尻池2丁目)

「長田今昔ものがたり」第28話

第28話  旧前田家のカキツバタ 2017年1月21日放送

須磨の前田家はともかく古いのです。加賀の前田家の方が親戚かなと調査にきたこともあったそうです。家の前に植えられていたカキツバタは街道を往来する人に親しまれていました。「須磨の前田のカキツのなかに、アヤメ咲くとは知らなんだ、咲いてしおれて また咲く花は、須磨の前田のカキツバタと詠まれた」と井上さんがお話されます。菅原道真が左遷の旅の途中で立ちよったので、前田さんが井戸の水でお茶おさしあげた逸話も残っていまし、菅公お手植えの松もあります。近くに綱敷天神があり、道真公に綱をまいてサブトンの代わりに座ってもらったという話も残ります。


28話 菅公 お手植えの松(旧前田家)

「長田今昔ものがたり」第27話

第27話 村の論争 2017年1月14日放送

江戸時代は住居の移動がむつかしい時代でした。自分たちの土地や山林の境界争いが裁判となったことが記録されています。1711年の「和田山争議」は、東尻池村、御崎村、兵庫津の三つどもえの訴訟でした。お江戸で争うことになります。ときの東尻池村の庄屋は宗国さん。代官などへの手土産を用意したり、深川の富岡八幡に願をかけたりされます。主審の松平さんとも直談判、勝訴するのですが、「江戸まで出て、訴訟で決着をつける」きりりとした態度に感動します。和田山にあった「福原内裏分石」が東尻池の菩提寺にあります。「和田山の地は村のものであった」そう伝えているような気がします。


第27話 福原内裏分石(宝満寺)