奄美専門チャンネル~南の風~さようなら「平成」〈平成時代の奄美30年間を振り返る VOL.02〉


さようなら「平成」〈平成時代の奄美30年間を振り返る VOL.02〉

奄美専門チャンネル「南の風」では、「世(ゆ)替わり」にあわせて、平成時代の奄美はいったいどんな30年間だったのかを、数回にわたって特集したいと思います。今回はその2回目です。
〈語り/01〉プレリュード 奄美の「平成時代」の30年間を考える時、メルクマールとなるのは①2002年=「島唄ブーム」②2005年=奄美が日本に復帰して50年が経過。記念式典が行われる。③2009年=薩摩軍が奄美・琉球に軍事侵攻してちょうど400年にあたる―と言った具合に、2000年代(00年代)に集中していることが特徴です。

今回はその①2002年=「島唄ブーム」について語りましょう。それはつまり〈歌の力〉が奄美のひとたちを変えたのです。
THE BOOMというバンドが歌った「島唄」が全国で150万枚のCD売上げを果たし、この曲のヒットから「島唄ブーム」が始まりました。
「島唄」はもともと奄美に流通していた呼称で、正確には、〈われらシマ(集落)のうた〉という意味です(〈しま〉とは元来、「島」ではなく「集落」を意味します)。それがブーム現象の副作用として、沖縄の民謡を含む沖縄発信の歌謡・POPSを含めた呼称として「島唄」が定着していきます(このことについては奄美でもともと使われていた原義から逸脱したとしても、言葉・概念の拡散現象の中でしはしばおこりうる事象であり客観的にみていきましょう)。

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この島唄ブームを準備するかのように、奄美では大きな地殻変動が起きていました。つまり島唄ブームに前後する形で奄美のシマウタが全国的に知られることになり、それがフィードバックされて、奄美の人たちに、大きな自信をもたらしたのです。それまでは北に鹿児島(薩摩)、南に沖縄(琉球)という文化・経済・軍事強国に挟まれた奄美はなかなか自分たちのアイデンティティを確立しにくかったのです。

島唄ブームの下地は奄美の唄者の活躍なくしては語れません。「奄美民謡大賞」の第1回優勝者である築地俊造が1979年に民謡日本一の栄冠に輝きました。続いて当原ミツヨ(1988年)、中野律紀(1989)など続々と日本一を獲得。そうした事実が、奄美のひとたちに自分たちの歌謡文化が自分たちの奄美だけではなく、日本全体においても、称賛の対象になることを知ったのです。そうした発見と自覚は、奄美の人たちに大きな自信をもたらしたのです。いわば「歌の力」によって、奄美の人が奄美を誇らしげに語り自覚するようになったということです。

〈語り/02〉地域に密着したラジオ局の役割/奄美と神戸という地域に密着した放送媒体の役割

平成時代を創作四字熟語で表現すれば、阪神・淡路大震災は、「震傷膨大」。東北大震災は「天威無法」とのことです(住友生命が募集した創作四字熟語で特選をとった作品から)。平成の30年間の神戸といえば、同7年(1995年)に発生した阪神・淡路大震災の発生とそれに続く混乱、復興、震災記憶の継承などに費やされた30年といっていいでしょう。こうした大きな災害が起きると、ラジオという電波媒体が見直されます。

また奄美も数多くの天災に見舞われました。とくに2010年の「奄美豪雨」では大きな被害を受けました。その被害状況と復旧の過程を詳細に報道したのが、奄美大島の奄美市名瀬に本拠を置く「FMディ」です。24時間の放送体制を敷いて地元住民に対して、情報を提供しつづけたのです。

これらFMわぃわぃにしろFMディにしろ、大きな災害時でわかったことは、ラジオという媒体が、情報提供をすることに欠かせられないインフラ(基本)・メディアであるということです。

同時にこのラジオを聴くことの環境もこの30年の間に大きく変化しました。阪神・淡路大震災のとき、携帯電話を使っている人はいましたが数は多くありませんでした。電気がきていない避難所では、ラジオ受信機による情報収集が大きなウェイトを占めていました。ところが2011年に起きた東北大震災の避難所でひとたちが要求したひとつが、携帯がつうじやすくなるWi-Fiスポットなのです。つまりスマートフォン経由でラジオ放送を視聴していたのです。ラジオ放送を聴くのも、ラジオ受信機からスマホへと大きくさまがわりしたのです。

〈語り/03〉失われていくもの、来る人・去る人

(失われていくもの)先日、沖縄の粟国島に伝わる「洗骨儀式」をテーマとした映画「洗骨」(照屋年之監督、2019)を観てきました。「洗骨」は奄美・沖縄を含む琉球列島に伝わる葬法です。死者は棺桶に入れられフーチャ墓といわれる洞窟墓に埋葬されます。4年ほどだった時、棺桶をあけて白骨化した遺体を洗い、新しい収納箱にいれるという儀式です。奄美でも50歳台以上のひとなら小さい頃、この洗骨を経験したひともいるのです。映画では、洗骨のなまなましい場面を隠すことなく映像化して、それだけでも大いなる文化的価値のある映画といいえるでしょう。

しかし琉球列島はすでに火葬が主流となっていて、この洗骨を行っている島は少なくなってしまいました。洗骨は白骨化した身内と出会うわけですから、そのありていさは、洗骨を習俗としている島の人たちにとってもショックです。しかし変わり果てた身内と出会い、骨を丁寧に拾い上げることでふただびその身内と出会うことができる。こうした習俗は、死、死者、遺体を目に見えない場所に隠匿する生活習俗のなかに生きる本土の人たちには、異様に思えるかもしれませんが、琉球列島ではこうして先祖(うやふじ)を観念や位牌といった抽象化された事物ではなく、実体的なモノ(遺体)として出会うのです。こうした習俗は、シマのひとちの生死観に大きな影響を与えます。つまり生きている者と、なくなった先祖たちの距離が短く、島で共に生きているという実感を日々の中にいだくのです。

(来る人・去る人)神戸と奄美と共通すること。それは外国人労働者が身近にいるということです。

神戸でも深夜における都心のコンビニで働いているのは外国人(中国人、韓国人、ベトナム人、ネパール人)がほとんどという場面はもう慣れっこになっていると思います。奄美、特に労働集約型である花卉産業がさかんな沖永良部島では、多くの外国人(中国人、ベトナム人)が働いています。そうした外国人労働者なくしては島の花卉産業はたちいなかなくなっているのが現状です。雇い主である沖永良部の人たちも、できるだけすごしやすい労働環境をつくるたるめに努力しています。しかし、外国人労働者が突然いなくなるという事態はなくならないのです。その理由は簡単。同じ日本でも時給が異なるからです。

最低賃金で比較してみましょう。761円(鹿児島)、871円(兵庫県)、936円(大阪府)、985円(東京都)〈2018年労働基準局作成〉。これは最低賃金ですから実勢金額はもっと上です。同じ一時間働いても賃金差は明確です。都会にでれば家賃ほか生活にかかる費用も高止まりするのですが、この賃金差だけに目を奪われたら、より高い賃金が得られる都会に出ようとする心理も理解できます。

4月から改正出入国管理法案が施行され、特定技能者に対して門戸が開かれましたが、現状はすでに飲食、建設、介護などの職種では、日本人だけではとうてい人員がうまらず、外国人がいなければ機能しないようになっています。いまはこうした労働集約型の業界だけですが、やがて日本における全産業にこの労働者不足は深刻な問題となるでしょう。そうした事態を受け止めるためにも、このFMわぃわぃが唱えている「さまざまな人がさまざまな価値観のままで共に生きる社会」をしっかりと日常生活の中で構築していくことが大切になってくることでしょう。