シリーズとなってしまいましたワンコイン番組の連続登場「宮本Crewがいく!日台友好歴史探訪旅行記」その3
日台友好歴史探訪旅行記3
■前回伝えられなかったことから、
欧米列強の侵攻に対抗するため、防衛ラインとして樺太から台湾を設定したことは、前回お話ししましたが、その後、清朝が琉球を日本の国土と認める事件が起こります。
1871年(明治4年)琉球の船が台湾に漂着し、54名が原住民に惨殺される事件が起きました。(牡丹社事件)
副島外務卿は、清に賠償を求めましたが、琉球は清にも日本にも朝貢をしていたので、清は「琉球人は日本人ではないし、台湾は野蛮人の住むところで清と関係ない」と応えました。
ならば、琉球人は日本人と考える西郷従道は、台湾に出兵しても文句はないだろうと、1874年(明治7年)台湾に出兵、イギリスの仲介により清朝は、「台湾出兵は義挙であり、日本人である琉球人が殺されたことは遺憾である」として賠償金50万両を支払いました。これで、琉球は日本となったのです。
西南戦争(明治10年)より前の出来事ですが、この時点で台湾は射程圏に入っていて、日清戦争で勝利した日本が1895年、台湾を得ました。
しかし、そんなことは露とも知らない台湾人は、抵抗します。当然ですね。
実際、当初の台湾統治に大変苦労します。現地部族の風習は、首刈りです。「話せば分かる」と、丸腰で現地に入植した日本人や漢人など、7千人が、被害に遭いました。また、マラリアなどの風土病、衛生面でも困難を極め、後藤新平が台湾長官となってからは、風土病対策、アヘン吸引習慣の暫時解消政策、上下水道の整備等を進めました。
これにより、次第に落ち着いてきた台湾に、八田與一は、1910年台湾総督府の技師となりました。
八田は、上司の浜野弥四郎が進める上下水道事業を通じて、多くのことを学びました。
浜野は、台湾水道の父と呼ばれ、東京や名古屋より先に水道を整備しました。浜野は日本に帰って、神戸市水道課長になって神戸市に水道を引きました。
昔のエリートは、本当に立派で、欧米で最先端の技術を学び、本土より先に台湾で実践しました。
彼らの一人、名前は忘れたのですが、フランスに留学して、あまりにも休まず勉強するのを心配した、大家のマダムが、「少しは休んだら?」と勧めたところ、「私が一日休むと、日本が一日遅れる」と言ったそうです。
今の日本にそんな気概のある人がいるでしょうか
そんなエリート像に加えて、八田與一は、当時、本土の日本人は1等国民、沖縄人は2等国民、台湾人は3等国民といった差別がありましたが、そのようなことにとらわれず、平等に接し、関東大震災で予算の確保が厳しくなったときに、日本人から先に辞めさせたこと。作業員が家族と共に、職務に安心して集中できるよう、社宅や、病院、学校、テニスコートを整備し、それこそ家族同様に接したことが、愛される原因としてあげられ、台湾の教科書にも掲載されています。
そして現代、八田與一像、首切り事件の真相です。八田與一像とお墓です。
このように、台湾に愛される日本人がいることに、どうしても面白くないと思う人がいます。
5月8日の慰霊祭で、銅像の首が取れたら、どれだけ面白いだろうと考え、2017年4月中旬に、深夜2時間かけて金のこぎりで、銅像の首を綺麗に切断し、再び乗せて、慰霊祭を待つことにしましたが、4月16日、首は落ちます。
地元の方々の中に、この銅像の胸から上の部分のレプリカを3体持っている方がおられ、ご協力により、像は復旧され、慰霊祭に間に合いました。
しかし、落ちた首は未だに見つかっていません。
犯人は直ぐに捕まりました。一連のやったことをFBにアップしていたからで、自首してきました。犯人は、色々と問題のある人物で、元台北市議会議員、李承龍です。台北市の役人や議員を殴って起訴されたり、放火で逮捕されていました。
犯人は、中国と台湾は統一されるべきと言う党派「中華統一促進党」に所属しています。
「中華統一促進党」は、構成員が約9千人といわれ、この党に所属すれば、中国とのビジネスがしやすいという触れ込みで、党員を増やしてきましたが、台湾の中ではごく少数派にしかなりません。
問題は資金源で、マフィアです。日本への金の密輸で儲けています。実際に受け子に香港で金を渡し、釜山に行かせ、そこから日本へ密輸し、日本出国時に、消費税の還付を騙し取る様、細かく指図しています。そのほかにも・・・・・・
烏山頭ダムの放流をご覧ください。大変な歓待を受けたことになります。
台南には、ダム以外にも日本人を祀ったお寺があります。
鎮安堂、飛虎将軍廟です。
飛虎とは戦闘機を意味します。戦時中、台湾に空襲を仕掛けてきた米軍を迎え撃った杉浦少尉を祀っています。
杉浦少尉は、多数の米軍機と戦いましたが、最終的には被弾し、亡くなられました。しかし、地元の方は、杉浦少尉を祀ったことで、村が安全になり、畜産も栄えたことから、今も護ってくれていると信じて、毎日朝夕、たばこのお供えと「君が代」「海ゆかば」を廟内で放送し、唱っています。
もう一つが、義愛公、森川巡査を祀った富安宮です。
「地元では、神様、仏様、義愛公様」と慕われる存在で、森川巡査は1897年36歳で渡台、下級官吏でありながら、文盲の地元の方々に自費で文字を教え、衛生教育を施し、人命救助を行う、優しくて、品行方正、誠実な方で、何より、地元の方を愛し、愛され、皆が慕う存在でした。
ところが、農業と漁業を営む村に飢饉が訪れます。さらに、生活が大変なときに、台湾総督府は増税を行いました。地元の方は森川巡査に、免税を総督府に訴えて欲しいとお願いしました。森川巡査も、もっともなことと訴えましたが、逆に住民反乱を先導する危険人物と疑われました。
森川巡査は、住民の期待に応えられ無かったこと、また身の潔白を証明するため、ピストル自殺をしてしまいました。享年42歳でした。地元の方々は深く悲しみましたが、殺した犯人と間違えられるのが嫌で、誰も遺体に近寄らず、村を出て行く人もいました。20年後、今度は疫病が村を襲います。そんなとき、村人の枕元に「ちゃんと手を洗え」とか、「生水を飲むな」と注意する巡査の霊が、そこら中に立ち、実際、疫病被害を少なくすることが出来ました。
今も森川巡査が村を護ってくれいているとして、「義愛公」と名付けお祀りしています。
写真は、富安宮の前で、バイクにハマグリを載せて商売しているところと、フルーツの露天商です。牡蠣殻が沢山積まれていました。
ツアー参拝客が80名ほどいたのですが、この奥さんは、「遠いとこから良く来てくれた」とみんなにバナナを振る舞ってくれました。
戦後、蒋介石の国民党が、日本統治の痕跡を消そうとしていた時代に、日本のことを大切に保存してくれたこと、感謝の気持ちが抑えられませんでした。
こんなに日本のことが大好きな台湾の方に、中国や米国の顔色を見て、冷たく接する日本が、恥ずかしく感じます。
台湾人の最高の褒め言葉が、「この人は、誠実で信用できる。日本精神を持っているから。」だそうです。
夕日を背に、宮本はバイクだらけの台北に向かいました。では次回。