2019年2月23日ワンコイン番組多様な人々の参加です!


2月23日の参加者は左から佃由晃Crew、神戸ソーシャルブリッジFMYYグループのチームリーダー西岡幸子さん、そしてFMYYの定款まで熟読された大井秀人さん、日台友好歴史探訪旅行記その4を引っ提げての宮本健一郎Crew、そして陶芸家田村遊Crew、ミキサーは平野由美子Crewでした。

Youtubeはちょっとした手違いで、最初が切れていますが、ご了承くださいませ。

■神戸ソーシャルブリッジのお二人の報告by西岡さん
神戸ソーシャルブリッジメンバーから大井さんと西岡が参加。YYからの依頼はウェブページのリニューアル案、しかし現状・強み弱み分析の結果、「まずはより多くの人たちにFMわぃわぃの活動を知ってもらうことが必要!」ということで、番組のカテゴリー化と、それをもとに理念や表彰歴などを含めた表裏1枚にまとめたパンフレットを成果物として提案。そして今日、最終版のパンフレットを私たちメンバーも手にし、感動!!これをスタートに、ウェブページの改編にきっと役立つとはず。このプロジェクトを通して、素敵な活動をされているFMわぃわぃと関われたこと、異業種の方とのつながりができたこと、そして、これからも違った形で繋がっていけることが参加した私たちにとっても大きな収穫となり、本当にありがとうございました!
最後に、ソース通の大井さんにメンバーの森下さんから長田ソースの送別プレゼントが!すると、長田ソースの歌というのがあるということで、その曲をワンコイン番組中に流してもらい、神戸ルーツのソース話に花が咲き…意外なところでもつながりを感じることができました。
*神戸ソーシャルブリッジとは神戸市主催の、NPOや地域団体と、企業社員や行政職員など社会貢献活動に関心のある人とをつなぎ、地域社会の課題解決に取り組むプロボノプロジェクトです。

■日台友好歴史探訪旅行記その4
1 芝山巌精神 六氏先生のお墓

台北の見晴らしの良い丘に、芝山公園があります。太極拳や散歩など、憩いの場になっていて、静かな場所ですが、250段の階段を上ると六氏先生のお墓があります。

六氏とは台湾統治の初期に、台湾に渡った6人の学校の先生で、台湾で最初に設立された学校「芝山巌学堂(しざんがんがくどう)」に住み込んで、教育に没頭しました。
しかし、地元の抵抗運動が激しく、標的となり殺されました。
台北は不穏な空気に包まれ、早く逃げるべきと勧められていたのですが、「寸鉄を帯びずして教育に携れば、必ず通じる」「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と信じ、避難しませんでした。

6人の先生はいずれも若く、一番年下は17歳「平井数馬」で、高等学校卒業後、「自分の力を試したい」として、台湾に渡りました。

台湾では、台湾語が話されていましたが、台湾語に文字は無く、先ずは辞書を作る事からのスタートでした。台湾に渡ってたった半年で殺されたのですが、たった半年で、耳が良かったのか、台湾語の発音を正確に文字「日台会話集」にしています。

この功績は、追って渡ってくる日本人の助けになっていました。 欧米の植民地経営では、決して教育はしません。知恵をつけた原住民が、独立しようとするためで、分断し、互いを憎しみ合わせて統治しやすくするには、共通語など持たせません。

なのに、積極的に台湾を日本にしようと、日本語を共通語として教えました。 彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになりました。

この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾学童の就学率は1943年(昭和18年)頃には70%に、終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となりました。芝山巌は「台湾教育の聖地」と称されています。

2 鳥居と明石元治郎
台北市中山区、市内の真ん中に大きく綺麗に整備された公園があります。そこに、なぜか鳥居があります。
これは、明石元治郎第7代台湾総督のお墓とセットで設けられた鳥居で、今はお墓は移設され、鳥居だけが残っています。
綺麗な墓苑だったのですが、戦後、蒋介石率いる国民党軍が、軍属、その家族を含め200万人で、400万人の台北市に移り住み、所狭しとバラックが建ち並び、お墓は埋もれ、スラム街となっていました。

1994年、後に総統になられる当時の陳水扁、台北市長は、この地に鳥居を残して公園整備し、お墓は遺族の了解のもと、台湾有志達が資金を出し合って台湾北部のキリスト教墓苑に納められました。なお、この墓苑にはテレサ・テンの墓もあります。
台湾人が、ここまで「明石元二郎」を恩人として敬っているわけは、今に続く始まりの道を、明石が切り開いたからです。
明石は大正7年(1918年)に第7代台湾総督として任命され、わずか1年4カ月の短期間で、水力発電、日本人も台湾人も均等に教育を受けられる教育制度の確立、銀行設立などを始めたからです。
特に明石が制度化した台湾教育令は革命的で、日本人と同様の教育を台湾の人も受けられるものとし、後の台湾の発展に大きな力となりました。台北師範学校をはじめ多くの学校を開設、昭和3年(1928年)には台北帝国大学(現在の台湾大学)を大阪帝国大学や名古屋帝国大学より先に創設しました。
この大学から、李登輝をはじめ、数多くの台湾リーダーが誕生しています。
ところが総督に就任してわずか1年数カ月後の1919年7月病に倒れ、故郷の福岡で療養するものの10月26日に永眠。明石の遺言により、亡骸は台湾に埋葬され、その墓のそばに明石神社を建て、祀られました。それ以後、国民党がくるまで、ここが日本人の共同墓地となったのです。

今、公園は、きれいに整備され、スターバックスがそばにあります。
明石元次郎には、もう一つの顔があります。明石一人で20万の兵隊に相当すると畏れられていました。それは、日露戦争においてスパイ活動を行い、レーニンらへの機密工作によりロシア革命を支援することで、このまま戦争を継続すると負けそうになった日本の勝利に大きく貢献したからです。
戦場で殺しあうだけが戦争ではなく、インテリジェンスの重要性は大きい。当時の日本とて、その認識があり、大きな経略から見れば、台湾統治もその延長線上にあるという見方もできるのかもしれません。更に皮肉な見方をすれば、情報戦、歴史戦も捉えるなら、今も戦争状態にあるといえます。
3 今も続く日台友好の絆
一方で、草の根的な日本と台湾の関係を考えると、情緒的な気持ちを禁じ得なくなります。
結局、台湾は昔、確実に植民地ではなく日本そのもので、日本統治の50年間で、当時の日本が移され残っている。台湾を見れば、戦前の日本を知ることができるタイムマシンではないだろうか。
そして今、台湾人の気持ちに寄り添うことで、日本人の失いつつある当時の「日本精神」を学ぶことができます。そのきっかけが、2013年東京ドーム、ワールドベースボールクラッシクでの出来事です。