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3月11日土曜日ワンコイン番組で南相馬臨時災害エフエムひばりFMの声を届けました。

2011年9月に福島県、宮城県、そして岩手県の臨時災害FMを訪問しました。その時の新神戸から新幹線で福島まで行き、そこからバスで南相馬市役所まで行ったときの写真で、当時を振り返りました。
あの時から6年!!これからが地域のための地域の人々による地域のラジオ局が必要とされます
しかしながら当時訪ねた臨時災害FMのほとんどは、運営費の調達ができず閉じられていきました。
「まちを守る」「まちに生き続ける」「まちの未来を創る」ため、なんとしても地域の人同士が声を届けあう「場」としてのコミュニティメディアは必須だと、阪神・淡路大震災から22年、一人一人の声にこだわってきたFMわぃわぃは考えます。
11日の参加者は、右から蔀よりこさん、長田のからはるばる「ワンコイン番組」出演のためやってきた新体制で理事になった橋爪明日香さんと太郎ちゃん。そして今ちゃんこと今井正さんと司会進行はFMYY金千秋。

ミキサーはcrewの高松純一さん、そしてもう一人の参加者上澤寛文さん。

この日から新しいミキサーに交換しました。(しかも新品です!!)朝から高松さんと番組終わりからは上澤さんも参加して機材チェックや音声のチェックなどなど対応してくれました。
**みなさん音はクリアになりましたでしょうか???
タイでお聴きの江崎さんからもちゃんと聞こえてますよ~~~京都でお聴きの松浦さんからもご連絡のメールをいただきました。
ありがとうございます。これから10年選手のパソコンたちも順次新しくして行かなくてはなりません。みんなのメディア!まずは会員になってこの「場」を繋いで行きましょう~~
入会⇔https://tcc117.jp/fmyy/nyukai/

神戸医療生活協同組合~長田・腕塚から始まった誰でもが安心して医療を受けることのできる取り組み

神戸長田で生まれた神戸医療生活協同組合が55周年を迎えます。

その記念の「怒る富士」という前進座の上演が、3月14日(火)、神戸文化ホールであります。

FMYYでは、55周年の特別番組が、3月4日土曜日から13時~13時30分で放送されます。

今回は神戸医療生活協同組合の歴史を板崎聡専務に、現在地域の暮らしの助け合いの輪を全力世推し進めている虹のサポートセンターのお話を川端典子所長に、そしてこの前進座のお話を荒木麻さんのお話いただきました。

長田の腕塚で始まった、医療をすべての人々に平等に!という心ざしで始まった「世直し」といういうべき活動のその様々な軌跡はこれらの本にまとめられています。


21世紀の高齢化と少子化と硬直した人と人の関係、なんとも未来に希望の持ちにくい「差別する、排除する」という力が社会の中でまかり通りそうな予感の中で、戦災からそして住環境を自分たちで改革してきた、またあの阪神・淡路大震災から、その後の被災地と共に、住みやすい住みたい、住み続けたいまちを創るための高き志をもった、長田から生まれた神戸医療生活協同組合の求めるところをお聞きくださいませ。

3月4日土曜日ワンコイン番組~陸前高田からの電話レポート~


2017年3月4日のワンコイン番組。最初に陸前高田臨時災害FMの元パーソナリティ阿部裕美さんに電話中継をしました。


本日の参加者は、今井正さん、宮川清さん、宮川信子さん、朴明子さん、上澤寛文さん。
それぞれに話題を持ち寄りました。今井さんは税金について!宮川(清)さんはその話題に合わせてオリンピックの税金の使われ方、宮川(信)さんは声を上げていくことの大切さ、朴明子さんはコリアンにとって、3月は3・1(独立運動)の韓国のジャンヌダーク柳寛順(ユ・グアンスン)いろんな語りがありました。


この東日本大震災で非常に大きな役目を果たした臨時災害FM!その中のひとつです。阿部さんは、そこで3年半にわたってパーソナリティを務め、現在は筑前高田の市街地のかさ上げされた高台に2棟建つ復興住宅の1階の市が開設した交流スペースで社会福祉協議会の一員として担当されています。かさ上げされたその土地の下には地域の人々にとって、2011年以前の自分たちの町があり、自分たちの家がある。。。。ということでした。2015年に公開されたドキュメンタリー映画「波のした、土のうえ」を思い出しました。

FMYYのスタッフや支援者やいろんな人々が陸前高田を訪れることになりました。被災地との繋がり~~それは単に被災地同志という事だけでなく、未来の世代の住みやすい、住み続けたいまちづくりとはなにか?それを共に考える、知恵のやり取りをする仲間です。こういう仲間が日本中、世界中に増えていくことこそ、この国を強く豊かで美しいものにすると心から信じています。


たかとりコミュニティセンターの中庭では、その仲間の一人、長くFMYYで「チャオ・カック・ヴァン」というベトナム人のための番組を担当していたヴィンさんが朝日放送の取材を受けています。

海を越えてきた仲間たち~~~それはもう私たちの力強い地域の仲間なのです!!壁はいらない!!

YYJournal~神戸親和女子大学の連携校・ソウル女子大学のGlobalServiceLearning


毎年この時期に神戸親和女子大の地域交流センターがコーディネイトする韓国のソウル女子大学海外サービスラーニング教育プログラムの受け入れをしています。
今年は4人の日語日文学科の女子大生がやってきました。引率は安善柱(アン・ソンヂュ)教授、学生は朴賢周(パク・ソンヂュ)さん、朴廷娥(パク・ヂョンア)さん、金志垠(キム・ヂウン)さん、鄭知永(チョン・ヂウン)さんです。

今年FMYYでしていただいた作業は、2グループに分かれ、1つのグループは、カトリックたかとり教会が1995年の震災の年のクリスマスに掲げた「たかとり救援基地」のメッセージの韓国語訳。この場所はなんのための場で、なにを求めていて、誰に向かって伝えたいのか…。それを自分の国の言葉に訳してもらいました。同じくこのたかとり救援基地、そしてたかとりコミュニティセンターになってもその精神は綿々とあり、FMYYはそれを「伝える」場として発信しているその思いを韓国語に翻訳してもらいました。
別のグループは、新しく2月から始まった「즐거운 잔소리 시간 (チュルゴウン・チャンソリ・シガン)}の番組の音声を聴いて日本語の訳をつけてもらいました。
この番組は、新しく日本に来たニューカマーの韓国人にむけた番組。日本でのいわゆる「在日」無絵kの番組ではなく、1970年代や1980年代の学生たちにとって、自分の母親やもしかしておばあちゃんの知っている韓国ソウルの話が語られている番組ですので、同じ国の言葉を使っていても時代が違えば中々理解がむずかしい~~~という多様性の一環が見えた翻訳の現場となりました。

즐거운 잔소리 시간 チュルゴウン・チャンソリ・シガン(楽しいおしゃべりの時間)第2回

즐거운 잔소리 시간 “마포종점〟 麻浦終点”3月4日土曜日6時半から7時

오늘방송은1960대 인기가요 은방을자매의 노래 마포종점에 대한 이야기입나다.
그 시대에 가난한 사람들이 모여산 전차의 종점인마포는 많은사연들이 담겨있고, 국민애창가로도 많이 알려져있습니다.

이노래는 그당시 마포구에 살았던 작사가 정두수선생님이 발착을 알리는 땡땡땡종소리와 함께 서민의애환과 정취를 싫어 나르는 전차가 사라진다는 아쉬움에 전차와 더불어 어느두여인의 슬픈사랑이야기에 얽힌 아련한 옛기억을회상하면서만든 노랫말에 작곡가 박 춘석선생님이 곡을 붙혀 1967년 에 발표했습나다.

노래가사는 마포종점을 바라본 한강을 낀 마포의 야경이 잘 나타나 있어 마포주변의 옛 모습을 회상하는데 도움을 줄 뿐만 아니라 마포가 여러 사람에게 사랑받는 계기가 되었답니다.
서민의 발이요, 애환을 실어 나르던 전차는 ‘마포종점’의 노래가 발표되던 이듬해 세월의 기억 속으로 사라지게 되었고, 1968년 11월 30일 운행이 전면 중단된 전차는 그 당시로는 가장 중요한 대중교통 수단이었지요.
또 이노래에 나오는 /강건너 영등포에 불빛만 아련한데/가사는 당시 영등포는 각종 공장들이 밀집한 공업단지로 대한민국 경제 발전의 견인차 역할을 하던 곳 입니다. 따라서 영등포는 전국에서 몰려든 수많은 구직자들이 몰려들던 인구밀집 지역 이었습니다.

특히 마포는 빈곤층들이 모여사는 서민들의 애환이 서린 대표적인 달동네였지요.
이에따라 인적,물적 자원이 풍요로웠던 영등포에 수많은 유흥업소가 생기고, 급작스럽게 팽창한 신시가지는 범죄 발생 빈도도 당시에는 으뜸이었다고 합니다.
이노래가사에 나오는/저멀리 당이리에 발전소도 잠든밤/은 홍익대와 인접한 마포구 당인동의 서울발전소는 예전에 당인리 발전소라고불렸다고합니다.
식민지시대인 1930년에 서울 외곽이었던 당인리에서 화력발전으로 전기 생산을시작하며 서울특별시 발전의 동력 역할을 톡톡히 하였지요.
또 노래가사에서는 /여의도 비행장엔 불빛만 쓸쓸한데 /지금의 상식으로는 도저히 상상되지 않지만 여의도는 일제시대에 만들어진 국내 최초의 비행장으로 1958년 김포로 이전하기 까지 국제공항으로 사용되었습니다.
마포종점 노래가 발표될 당시에도 미공군 기지로 사용되며 군용기들의 이착륙이 활발하였습니다. 그러므로 비내리는 밤, 마포에서 건너다 보이는 여의도의 비행장 불빛이 쓸쓸하다고 표현했을 것입니다.

이와같이 노래를통해서도 그시대의 흐름을 어느정도는 알수있듯이 이노래에서는 마포외 영등포,당안리,여의도 세군데 지명이나오므로 그당시 이지역에대한 발전상 등을 엿볼 수 있는 것 같습니다.

“마포종점〟 麻浦終点

밤깊은 마포종점 갈 곳없는 밤전차
비에 젖어 너도 섰고 갈 곳없는
나도 섰다 강건너 영등포에 불빛만
아련한데 돌아오지 않는 사람
기다린들 무엇하나 첫사랑 떠나간
종점 마포는 서글퍼라

저멀리 당인리에 발전소도 잠든 밤
하나 둘씩 불을끄고 깊어가는 마포종점
여의도 비행장엔 불빛만 쓸쓸한데
돌아오지 않는 사람 생각한들
무엇하나 궂은 비 내리는 종점

チュルゴウン・チャンソリ・シガン ”麻浦終点(마포종점)” 

今回の放送は 1967年度정두수作曲家により発表された「麻浦終点」歌謡曲についての話です。
この時代の麻浦(マッポ)は電車の終点であり、貧しい人々が多く住んでいるところでした。
この歌にある「麻浦終点」から漢江を眺めてみると、マッポの夜景が綺麗に見えることから、昔の姿を思い出すのに役に立つだけではなく、大勢の人達に愛されています。 
庶民の足であり、庶民たちの哀歓を共にしたこの電車は「麻浦終点」という歌か発表された次の年1968年11月30日に電車の運行が全面的に廃止されました。
この歌の歌詞の中には、地名がマッポ以外にヨンドンポ、タンインリ、ヨイトなど3ヶ所出てきます。
特にその当時のヨンドンポ(영등포)は、各種工場が密集し、工業団地として経済発展に大きな役割を果たしました。従ってヨンドンポ(영등포)は、全国から大勢の人々が求職を求め영등포に集まっていたため、人口密集地域でもありました。
それにより、ヨンドンポ(영등포)は、人口密集地域であり商売も盛んで、数多くのお店や飲み屋などが集まるという急速に大きな町になっていたことから犯罪発生頻度も当時最も多くありました。
また この歌に出てくる地名タンインリ(당인리)は、現在の麻浦区タンインドンですが、当時はソウルの発電所がありました。
これがタンインリ(당인리)発電所です。1930年に初めての火力発電所として電気生産を始めソウル市発展に大きな役割を果たしました。

さらにこの歌に出てくる地名ヨイド(여의도) には、日本の植民地時代に作られたヨイド空港(여의도비행장)があり韓国最初の飛行場で国際空港としても使用されました。
このヨイド(여의도)飛行場は、1958年に現在の金浦空港として移転しました。
「麻浦終点」という歌が発表された当時にも、ヨイド(여의도)飛行場は、米国空軍基地として使用され軍用機の離着陸が活発でした。
それで歌の歌詞の中で、♪″여의도 비행장엔 불빛만 쓸쓸한데(ヨイド飛行場に、灯りだけが寂しいね~~)〟という歌詞があります。
当時、雨降る夜にマッポから眺めてみるとヨイド(여의도)飛行場の夜景はとても寂しく見えていたからかも知れません。それでこのような″여의도 비행장엔 불빛만 쓸쓸한데〟という表現を用いたと思います。

以上、歌を通してその時代の経済、地域性などをある程度知ることが出来たと思います。
この歌の「麻浦終点」歌詞には地名がマッポ以外にヨンドンポ、タンインリ、ヨイドなど3ヶ所が出てきます。今回の放送では以上のように「麻浦終点」の歌に出てくる地名の背景について様々な面から話をしました。

KOBEビジョンひろめ隊♡第7回目~ゲストは地域のための起業サポートグループです。

2月25日第4土曜日の17時半~18時「KOBEビジョンひろめ隊♡」の第7回目の放送、ゲストは、地域のための起業サポートグループです。

私たちのグループは、第8期ビジョン委員会から活動を開始した新しいグループです。地域経済の活性化を図るため、地域のために起業する個人や団体のサポートに取り組んでいます。メンバーは、12人で、地域活動に積極的に関わっている人や会社員OBで環境の専門的知識を持っている人など様々です。

グループ名の「起業」とは、「新しく事業を始めること」です。事業というと、とりわけ避けがちな「お金」の話になってしまいますが、地域のために、誰かの為の役に立ち、その人がハッピーになった分だけ、感謝のしるしとしてお代金をいただく、その持続可能な仕組みづくりが起業であり、それをサポートすることにより、地域の活性化に寄与したいと考えています。

会合では、有償ボランティア、クラウドファンディングや社会的インパクト投資など様々な議論を楽しく、活発におこなっています。また、具体的な活動では、グループメンバーが取り組む、垂水区高丸地区で、空き家を活用した子供から高齢者までの居場所づくりへのサポートを行ったり、長田の下町芸術文化祭プレイベントに参加し、若手アーティストのみなさんらと交流しました。今後も活動の支援について考えていきたいと思っています。